瀬戸内晴美 / 青鞜


中日新聞5月2日夕刊。
社会面に「脱原発 寂聴さんハンスト」。経産省前で大飯原発再稼働反対を訴える市民活動の記事。写真に寂聴さんと並んでいるのは鎌田慧さんだ! 最近読んだ「大逆事件」の本の著者がそろって反原発運動に参加しているのだった。(澤地久枝さんが持っているボードには「NYにいて参加できませんが気持ちは同じです」との坂本龍一氏のコメント)
それから文化面には昨年十一月から半年にわたって掲載された寂聴さんの〈「この道」連載を終えて〉と題するエッセーが。まったく偶然の成り行きだったが、この連載と平行して管野須賀子から大杉栄までの寂聴さんのテキストを読んでいた物好きな人間は日本中探しても自分くらいだろう。


     



瀬戸内晴美 / 青鞜 / 中央公論社 (上267P、下245P)・1984年(120504−0510)】



・内容
 明治44年、女性だけの雑誌『青鞜』が生まれた。平塚らいてう、25歳。旧い因習のなかで激しく燃焼した、その誇り高い青春と、『青鞜』につどう生気にみちた女性たちの群像を描く長篇大作。


          


女性の自立と解放を掲げて創刊された女性による女性のための文芸誌「青鞜」の軌跡を主宰者・平塚らいてう(1886-1971)の人生ともに描く長篇評伝。
青鞜』は良妻賢母像を女性に強いる旧弊な社会通念に叛旗を翻した雑誌として知られるが、自由な意見を投稿し、また詩や短歌、小説を発表できる唯一の女流専門誌として文学を志す日本中の女性たちに大きな期待をもって迎えられたのだった。
官僚の娘で恵まれた環境に育った平塚明(はる。らいてうは筆名)はもともと社会思想に関心が高かったわけではなく、文学にも興味を持っていなかった。結婚して家庭婦人として生きるのを嫌って大学卒業後も外国語を習ったり禅に凝ったりと自由な生活を楽しんでいた。
そんな明がどうして当時類のなかった雑誌を発刊することになるのかが上巻に記されている。

 原稿もぼつぼつ集まってきた。誰よりも早かったのが与謝野晶子だった。明は不安と期待のいりまじった気持で封を切った。原稿用紙に、躯に似合わない細い小さな字で書かれている「そぞろごと」という題が目に飛びこんできた。曖昧な迫力のない題だと思いながら、本文の詩を読みはじめた明は思わず居ずまいを直し、襟を正すような気分になった。


本書のハイライトになるのが上巻ラスト、「青鞜」第一号が誕生する件り。らいてう自身もあまり乗り気ではなかったし、他のスタッフも全員が雑誌制作の素人で確固たるビジョンがあったわけではなかったのだが、寄稿を求めた女流作家の中でまっ先に届けられた与謝野晶子の詩がこの雑誌の進むべき道を気高く指し示していたのだった。
〈 山の動く日来たる / すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる 〉に始まるその詩『そぞろごと』の一節 ―
   一人称にてのみ物書かばや。 / われは女ぞ。
   一人称にてのみ物書かばや。 / われは。われは。 
    
長沼(高村)智恵子の表紙絵も仕上がってきた。そして、晶子の詩に雷に打たれたような衝撃を受けたらいてうが全霊をかけて書きつけたのが発刊の辞「原始、女性は太陽であった」。今、女性は他の光によって輝く病人のような蒼白い月であり、隠された我が太陽を取り戻さねばならぬ。女たちに因習を打破し、自らの天賦の才に目覚めよと烈しく訴える力強い宣言だった。
この一連のエネルギーの集結、火を噴くような圧倒的な言葉の力は感動的だ。晶子の詩は全国の女性読者の心を震わせるものだったが、それより前に、若い雑誌を立ち上げた編集者たちの情熱を熱く燃え立たせたのだった。



‘新しい女’の雑誌は男性社会に好奇の目で見られた。女が煙草を喫い酒を飲むことが堕落したもののように報じられ、青鞜スタッフの恋愛はスキャンダルとして扱われた。不道徳だとして発禁とされる号もあった。
現代の感覚からすると、当時の「女性解放論」は実感としてつかみづらい。旧弊な家父長制、結婚、教育制度、女性の社会的地位には男性優位の差別的要素があったとはいえ、世間的には江戸時代からずっとそれが当たり前だった。法を変えようにも女性の政治家すらいない、男たちは帝国主義に傾いていく時代である。いつの世でも当たり前のことに異を唱える者は奇異に映るものだし反発や妨害も多かったのではないかと思う。
青鞜はただちに社会変革を起こしたわけではない。めぼしい文学史的功績もなかった。しかし、盲目だった者の目を開かせ、泣き寝入りするだけだった女性たちを鼓舞する存在ではあっただろう。か細く微力な言葉のピッケルがぶ厚い氷壁に初めて小さなひびを入れたのだった。
何よりも平塚らいてうその人が青鞜の運営を通じて洗練され、オピニオンリーダーとして透徹な目を社会に向けるようになっていく。豊かな教養と才覚をもてあましていた彼女にとって、青鞜は自らのエネルギーをいかんなく解放できる場だった。

 明は書きながら、まさかこの文章が近代日本最初の「女性宣言」となり、女の時代の黎明をもたらす強い力を持っているとは、考え及びもしなかった。締切に追われ、切羽つまって精神集注の只中でほとんど無我の境で書いたこの「発刊の辞」は、その文章の幼稚さや、修辞の大げささや、非論理的な文脈等々の多くの欠点を持ちながら、明の心の底からほとばしり出た熱情の真実だけは、言葉や文字を粉砕して、読者の胸の中に火の塊となってじかにまっすぐなだれこんでいった。


らいてうは自身の恋愛と妊娠から次第に青鞜に距離を置くようになり、後を継いだのが伊藤野枝だった。大杉栄との接点から社会思想問題が誌面に載るようになり、それ以降のことは『美は乱調にあり』『諧調は偽りなり』につながっていく。
自分としては青鞜の女性解放運動が社会主義運動と関係深かったのではないかと思っていたのだが、あくまで文芸誌だったようで、たとえば早くから男女同権を主張していた堺利彦とらいてうの関わりはないのが意外であり不思議にも思える(山川菊江は発足時から何度も寄稿している)。 それを考えると、青鞜発刊の数ヶ月前に処刑された管野須賀子はやはり異例中の異例の存在だったのかとの思いは強まる。
青鞜は五年で幕を閉じた。らいてう三十歳のときだったが、彼女はその後も長く女性問題と平和運動に生きることとなる。1922年には国会請願の後に女性の政治集会への参加を認めさせている。青鞜時代は八十五年の彼女の生涯の中のわずかな時間であり、むしろその後の活動に彼女自身が青鞜でまいた種が芽吹き結実していくのだ。