山白朝子 / エムブリヲ奇譚

怪談専門誌「幽」掲載の9話を集めた連作短篇集。幽玄耽美な表紙ジャケットに魅かれて買ったものの、怖いのは嫌だな〜と思っていたのだが、これがなかなかどうして……!



【 山白朝子 / エムブリヲ奇譚 / メディアファクトリー (270P) ・ 2012年 3月(120519−0522)】



・内容
 街道が整備されると社寺参詣や湯治にと庶民は諸国を旅するようになった。旅人たちは各地の案内をする道中記を手に名所旧跡を訪ね歩く。『道中旅鏡』の作者・和泉蝋庵はどんな本にも紹介されていない土地を求め、風光明媚な温泉や古刹の噂を聞いては旅をしていた。しかし実際にそれらがあった試しはない。その理由は彼の迷い癖にある。仲間とともに辿りつく場所は、極楽のごとき温泉地かこの世の地獄か。江戸― のような時代を舞台に話題の作家・山白朝子が放つ、奇妙な怪談連作。


          


旅本作者の和泉蝋庵(いずみ・ろうあん)と、彼の旅に荷物持ちとして同行する付き人・耳彦の珍道中ならぬ怪道中記。蝋庵はまだ地図に載っていない絶景、秘湯を探す旅を生業としていながら必ず道に迷う。一本道のはずなのに同じ道をぐるぐる巡っていたりするうちに日は傾き、彼らはやっと山間の侘びた小村に一夜の宿を得る。作中にはただ「迷い癖」と説明されているだけだが、蝋庵には彼自身も気づかぬうちに結界を越えて彼岸とのあわいに足を踏み入れてしまう性質があるらしい。二人はそこで奇っ怪な現象に見舞われるのだが、旅慣れた楽天家の蝋庵は難を逃れる一方、耳彦の方はいつもさんざんな目に遭うのだった。

 「まったくないね。しかし、まるで、きみの得意な怪談話みたいじゃないか」
 「わらいごとじゃありません! ぼ、僕は、こわい話が好きなのであって、自分がこわい目にあうのは、まっぴらなんです!」


深閑とした真夜中の山中、たちこめる霧の向こうからぼんやりとした人影が手招きする。それは耳彦と同じ旅人か、それとも彷徨う死者の亡霊か。葦河原で野良犬たちがむさぼり喰っているのは何か? 死産した女の腹から胎児とともに出てきたものは? まぼろしの橋の下に流れていたのは三途の川だったのか? 此岸と彼岸の裂け目で耳彦は恐怖を忘れ、しばし陶然としながら禁断の一歩を踏み出そうとする。
この短篇集を読ませるのは、ただ「怖い」だけではないからだった。生に執着するあさましくも欲深い人の業を描きながら、同時に、それだけが人間存在の全てではないことも記される。読者が導かれるのは怪談と情話の‘あわい’なのである。筆者はどちらか一方に傾くのを慎重に避けている。江戸時代を思わせる和風の騙りだが、流行り言葉を使えば「ハイブリッド」の形容がぴったりくるように思えた。



冒頭第一話の表題作、耳彦が‘エムブリヲ’と再会する結末はあんなにわかりやすい形で良かったのか。もっと謎めかして、奥ゆかしく終わった方が印象深かったのではないかと、初読時には思った。だが、あの場面で情感を強調しすぎてドラマチックに盛り上げてしまっていたら、その余韻のせいで続く物語との整合性を欠いたかもしれない。
怪異に遭遇した耳彦の胸に残るものは「温もりのようなもの」「やさしさのようなもの」と表現されている。怖さの、弱さの裏返しの感情として、「…のようなもの」が付けられているのかもしれない。異界に触れて肝を冷やしつつも、彼は自分がどうしようもなく現実的な―肉体的にも精神的にも―人間であることを思い知らされるのだった。
蝋庵のせいでとんでもない思いをさせられてばかりいる耳彦は、もう二度と蝋庵との旅などごめんだと心に誓うのだが、なぜかまた共に旅に出ている。仲が良いのか悪いのかわからないこの二人の軽妙なやりとりも各篇共通のお楽しみだ。

 「お湯の質はよい。見晴らしもよい。でも、死んだ人がお湯につかっているなんて書けやしない。きみはもどってこれたが、全員がそうだとはかぎらないからね。まあ、怪談の本を書くことがあったら参考にしよう」


ところで、この著者名「山白朝子」は某有名作家(男性)が覆面作家として使うペンネームなのだという。その‘本人’の作品は一つも読んだことはないのだが、よく読めば、たしかにこれは女性の手になる文章ではないという気がする。怪談専門誌への連載という前提もあってか、短いセンテンスを連ねたテンポの良い、簡潔で読みやすい文体ではあるのだが。
始めは恐る恐るページを繰っていたくせに、読み終えた今は、もうちょっとエグくても平気だったかもと思っているのである。女性作家が「どろどろの情念」を全開にする作品へのほのかな期待と大いなる警戒(笑)は空振りだったのだが(つまり、エロスが足りない)、この、ちょっとだけ欲求不満な「ほどほど感」が自分的にはけっこう心地良くもあった。蝋庵(らしき者)の正体が少しだけ明かされる最終話を読んでいると名残惜しく、もっとこのシリーズを読んでいたいという気持ちにもさせられた。
9話全篇が甲乙つけがたい出来だったが、いちばん気に入ったのは〈顔無し峠〉。耳彦が夜中にそっと起き出して釘打ちの練習をするところは、怪談集にあるまじき珠玉の名場面として心に残っている。