舘野泉 / 左手のコンチェルト


ちあきなおみに続いてクラシックピアニスト舘野泉。この脈絡のなさ…(泣)
でも、これは‘人間の王’、つまりオオカミ  のシリーズなのだ。



舘野泉 / 左手のコンチェルト / 佼成出版社 (221P) ・ 2008年(120527−0529)】



・内容
 脳溢血で半身不随の身体になってから六年、左手のピアニストとして復帰してからは三年半(本書刊行時)。これまでの軌跡を語った聞き書きの書。


          


五月二十二日放送のNHKクローズアップ現代」を見て、この人のことをもっと知りたいと思った。

  (映像あり、テキストあり、至れり尽くせりの)番組HP →  “音楽にすべてをささげて 左手のピアニスト・舘野泉” 

国際的に活躍していたピアニスト・舘野泉フィンランドでの公演直後に倒れたのは十年前の2002年。一命はとりとめたものの、右半身に麻痺が残った。懸命にリハビリに励むも右手は回復しない。二度とステージに立つことは不可能と医師からも宣告され、絶望の日々を過ごしていた。そんなある日、息子が持ってきたのは、第一次世界大戦で右手を失った友人のために書かれた左手用の楽譜だった。片手演奏のピアノ曲があることは以前から知ってはいたが、心のどこかで障がい者向けの練習曲程度のものだろうとの認識しか持っていなかった舘野は、初めてその楽譜に正面から向かい合った。その日から彼の新たな挑戦が始まった。

 左手での演奏というのは、両手の場合と違って、どちらかの手を休めるときがなく、はじめから終わりまで、左手だけで休みなく弾き続けなければならないのが、難しさの一つでしょうね。最低音から最高音まで、ピアノの全域を振り子のように揺れ動いてカバーしなければならないのも、両手で演奏していたときには想像もしなかった難しさです。


番組の中でも本書でも舘野さんは「右手が使えないことはハンディキャップではない」と繰り返している。片手で奏でる音楽は両手で弾く音楽に劣るものではない。これまでに吸収した音楽がすべて自分の血となり肉となっているのだから、それが何本の手で演奏されたかということなど問題ではないのだと胸を張る表情は柔和で爽やかでさえあった
戦時中にもピアノを弾ける自由な気風の音楽家一家に育ち、東京芸大を主席で卒業(芸大では安川加寿子さんに師事…ということは、青柳いづみこさんと同じだ!)。ピアニストのレコードデビューはショパンと相場が決まっていた時代にショパンは苦手だと公言し、二作目からは北欧のマイナーな作品をメインに録音。ヘルシンキに活動の拠点を移し(奥様はフィンランド人)、古典から現代曲まで旺盛な演奏活動をしてきた。
舞台で倒れたとき、六十五歳。演奏生活は四十年を越していたが、引退して余生を送るという選択肢は彼にはないのだった。



将来を嘱望された彼がどうしてウィーンやパリではなくヘルシンキを選んだのか。それは音楽的な理由ではなく、ただ学生時代から親しんでいた文学の影響で北欧を好きだったからというだけである。音楽の本場には伝統に則ったそれなりの決まりごとや細かいステップがあり、制約を嫌う自由闊達な青年にとってはフィンランドという国の音楽環境と風土の方が肌にあったらしい。他の音楽家への対抗心やコンプレックスとは無縁のおおらかな人ではあるが、他人がやっていなくても自分が良いと思ったことは迷わずやる、青年時代から変わらぬその一貫した姿勢には良い意味で育ちの良さがうかがえる。
療養後、演奏活動の再開を決意すると、彼のもとには旧友でもある作曲家たちから「左手のための(=舘野のための)」楽曲が次々と送られてきた。作曲家にとってもそれは新たな試みであり創作意欲を刺激するものだった。この数世紀の間にほとんど書き尽くされたかに思われる音楽語法にもまだ新たな分野が残されていたのである。そこにはモーツァルトベートーヴェンも書かなかった正真正銘のオリジナルを生み出す喜びがあった。舘野泉の復帰をめぐるこのサイドストーリーにも興味深いものがあった。

 子どもや音楽のプロではない人たちは、動機はどうであれ、白紙の状態で僕のピアノを聴いて、そのまま、ありのままを感じてくれるのです。かえって音楽の専門家や、演奏というものをわかっているはずの人のほうが、ある固定観念や先入観、既成概念にとらわれてしまうようです。その気持ちも充分にわかりますが、僕にとっては、いま、左手でこんなことができる、このような音楽が表現できるとわかったから、ひたすら弾いているという、ただそれだけのことです。


2004年、舘野さんは「左手のピアニスト」として活動を再開した。左手だけで弾くのは何も不自然なことではないと、今の彼はさらりと言ってのける。しかし、本当にそうだったろうか?
クローズアップ現代」番組後半、キャスターの国谷裕子さんとの対談中、それまで穏やかに話していた舘野さんが、ふいにこみ上げるものを抑えようとして声を詰まらせる瞬間があった。復帰して八年、本書も含めて自分の境遇と状況を説明する機会はこれまでに何度もあったはずだし、彼の身に起こった不運は彼自身の中ですでに消化され結着はついているのだと、そう振る舞っていたと思われるのに、この日スタジオで見せた彼の急な狼狽ぶりが、自分の心に焼きついて放れなかった。
言葉にはできない感情があるのだろう。どれだけ言葉を尽くしても、本当に他者に理解される言葉なんてないのを知っているのかもしれない。幼少期からの六十年余の間に身にしみついた演奏技法に決別する無念と葛藤。目をつぶったままでも演奏できるほど、それこそ躯の一部といえるほどに慣れ親しんでいた楽器を、あらためて別の方法で弾こうとする違和感。それは屈辱に近かったかもしれない。片手で88鍵をカバーするために、集中力はもちろん、使う筋力も体力も気力も、何もかもがそれまでとはまったく違っていたはずだ。
手を使えなくなることはピアニストにとっては「死」に等しい。肉体の死は免れたけれど、「ピアニストとしての死」をほとんど死んだ彼が選んだのは(選ばざるをえなかったのは)‘再起’ではなく‘新生’だったのではないか。

喜ばしいことに、演奏活動を再開してからというもの、右半身の機能は徐々に、本当に少しずつではあるが戻りつつあるという。精神の新生が肉体の再生をうながす。ピアノを弾き続けることが彼にとっては何よりの最善のリハビリであったということが、舘野泉という人間の根本を逆説的に物語っている。ここにあるのは医学の、音楽の常識や伝統を無意識のうちに突破して前人未踏の地平へと突き進む雄々しき人間像である。
片手のピアニストとして復帰したからすごいのではない。言葉にならない感情がある、だからピアノで弾く。ピアニストの彼にとっては当たり前の無垢な営為を続けているからすごいのである。今、この世界には舘野泉が両手で弾いたレコードと、左手で弾いたレコードの二種類が存在する。それは大作曲家の難曲を完璧に弾きこなすことだけが音楽芸術ではないということを示唆している。それと同時に、われわれがいかに自由な魂の発現たる芸術作品を決まりきった定型の枠組の中にのみ見ているかを暗示してもいる。「左手のピアニスト」は「未来のピアニスト」であるかもしれないのだ。

今年から来年にかけて、全16回のコンサート舘野泉「左手の音楽祭」が予定されている。一回だけでも、生の演奏に触れてみたい。