パスカル・メルシエ / リスボンへの夜行列車


“哲学小説”なんて以前ならパスしていたはずだが、今の自分には巨大なザリガニの襲来に怯えるロカンタンの免疫がある(笑)。
二段組み、480ページ。一読しただけではすんなり頭に入ってこない文がたくさんあるのも想定内。感想を書けるだけのものが自分に残るかどうかが不安だったが、頑張って読んだ。



パスカル・メルシエ / リスボンへの夜行列車 / 早川書房 (488P) ・ 2012年 3月(120603−0610)】

NACHTZUG NACH LISSABON by Pascal Mercier 2004
訳:浅井昌子



・内容
 古典文献学の教師ライムント・グレゴリウス、五十七歳。人生に不満はない―そう思っていた、あの日までは。学校へと向かういつもの道すがら、グレゴリウスは橋から飛び降りようとする謎めいた女に出会った。ポルトガル人の女。彼女との奇妙な邂逅、そしてアマデウ・デ・プラドなる作家の心揺さぶる著作の発見をきっかけに、グレゴリウスはそれまでの人生をすべて捨てさるのだった。彼は何かに取り憑かれたように、リスボンへの夜行列車に飛び乗る―。本物の人生を生きようとする男の魂の旅路を描き、世界的ベストセラーを記録した哲学小説。


          


ラテン語ギリシャ語、ヘブライ語に精通し、同僚からも生徒からも篤く尊敬されているベルン(スイス)の古典教師がある日突然、衝動的に仕事を放棄してリスボンへと旅立つ。あらすじとして記されているのはここまでだが、実際にはそれはほんの導入部分にすぎない。安定した生活をかなぐり捨てて旅に出る男のロマンなんかではない。本書の大半は彼―グレゴリウスが偶然手にした本の著者であるポルトガル人医師の人生をたどる内容だ。
自費出版らしきその本には、人生に対する深い洞察と神への反抗が鮮烈な言葉で綴られていた。その書「言葉の金細工集」を残したアマデウ・デ・プラドなる人物とはいかなる人物だったのか? グレゴリウスは不得手なポルトガル語で書かれた随想集に魅了され、のめりこんでいく。熱病に浮かされたかのようにリスボンの街をさまよい、かすかな手がかりをたよりにプラドを知る人物を捜し歩く。アマデウはすでに三十年以上も前にこの世を去っていた。過去を封印して生きる関係者たちにめぐりあい、足跡をたどって、やがて明らかになった男の真実の姿とは…?

 「でも先生……病気ではないんですよね? ええと……」
 いや、とグレゴリウスは言った。病気ではない、と。「少し頭はおかしいが、病気ではないよ」


アマデウの著書や手紙からの引用が随所に挿入される。虚栄心、尊厳、記憶、理性、時間の永遠性、友情、信仰、無神論、現実と事実、人生の完全性…などの哲学的随想は、読めば読むほど混乱してめまいがしそうなものだったが、グレゴリウスはポルトガル語を学びながら、知人たちに神格化され崇拝すらされていたアマデウの実人生にその思索を一つ一つあてはめていく。
厳格な判事の息子として生まれ、神童と呼ばれ育って市民から名医と敬愛されたアマデウの人生に何が起こったのか。なぜ彼は神への冒涜をも怖れぬこのような言葉を獲得し、その思考に至ったのか。思索と言葉の探求に生涯のすべてを尽くしたかに見える彼の人生に起こった知られざる事件が徐々に紐解かれていく。その過程で、グレゴリウスのそれまでの人生とアマデウを知る者たちの過去が複層的に重ねられ、アマデウが真に渇望していたものが明らかになる。結局それはグレゴリウスだけが知ることとなるのだが、「魂の救済」というものがあるのなら、グレゴリウスがしたことがそれだったのだと思わせる。



かつてアマデウと共に生きた者たち― ポルトガルファシズムレジスタンスの暗い時代を熱く生き抜いて、ひっそりと暮らしている年老いた人たちの姿が実に魅力的に描かれている。亡き兄を慕い止まったままの時間に生きるアマデウの妹。唯一無二の親友だったのに抵抗運動がきっかけで対立したままアマデウと死別した男の悔恨。秘密警察の拷問に耐えきった男。優秀な生徒が怪物的存在に成長するのを目の当たりにした神父の述懐。アマデウとの思い出に何某かの傷を負い、過去を振り返るのをためらっていた者たちがグレゴリウスに心を開いていく様が生々しく再現され、美しく切なく、時におぞましく痛ましい、いくつかの印象的な場面がくっきりと心に残った。
呼び戻されることのなかった過去と現在の往還、融合が見事に構成され、次第にグレゴリウスとアマデウの姿が重なりあい寄りそっていく。まったく無関係な現代のスイス人教師が過去のポルトガル人医師の生をなぞる。無意味な行為に思えるのに、必然が感じられる。無関係だったのはグレゴリウスだけではない。読んでいるわれわれだってそうなのであり、いつしか主人公の目は読者の目にもなっていく。終章近くになって気づいたのだが、この生真面目な堅物教師・グレゴリウスに対して親近感や信頼が自分の中に芽ばえていたのだった。

 シルヴェイラは笑い、グレゴリウスも声を合わせて笑った。ふたりは笑いに笑い、叫ぶように哄笑した。一瞬のあいだ、あらゆる不安も、悲しみも、失望も、一生のあいだに蓄積した疲れも超越したふたりの男。笑いによって稀有な形で結びついたふたりの男。たとえその不安と悲しみと失望が、それぞれ個別のもので、それぞれ個別の孤独を作り出しているとしても。


自分に宗教的バックボーンがあれば、もっと歴史や古典の知識があれば(ポルトガルカトリック国だということさえ忘れていた)、より楽しんで読めただろう。
それでも本書は第一級のミステリの趣きも含み、また「今ここに存在する自分は過去の自分と同一だろうか。その思考も同じといえるのか」というような問いは、パラレルワールドを扱うSFのように読めないこともない。“哲学小説”であろうとなかろうと、良い作品とはそういうものだろう。この小説にはすべてが含まれていたように思う。
人間の営みのあらゆる事象を描きこみながら、ただ一つ、表立って書かれていないものがあるのだが、それは書かないことによって濃い靄の向こうにうっすらと見えてくる仕掛けになっている。それはポルトガル語ではたしか「アモール」、英語なら「LOVE」とかいうやつである。
過去も現在も未来も、言葉によってしか語られない。言葉によってしか、本に書くことでしか、できないことがある。内容の理解度に自信はないから‘本年ベスト’と声高に言う資格はない。だが、静謐な文章の、金言が散りばめられた本書に向かい合った時間は濃密だった。これを「読んだ」という経験の実感はおそらくずっと忘れないだろう。まざまざと言葉の力を思い知らされた一冊だった。