宮下奈都 / 窓の向こうのガーシュウィン


【 宮下奈都 / 窓の向こうのガーシュウィン / 集英社 (248P) ・ 2012年 5月(120627−0630)】



・内容
 十九年間、黙ってきた。十九年間、どうでもよかった。「私にはちょうどいい出生だった」未熟児で生まれ、両親はばらばら。「あなたの目と耳を貸してほしいんだ」はじまりは、訪問介護先での横江先生との出会い。そして、あの人から頼まれた額装の手伝い。「ひとつひとつ揺り起こして、こじあけて、今まで見たこともなかった風景を見る」心をそっと包みこむ、はじまりの物語。


          


タイトルに「ガーシュイン」があるから、‘ラプソディ・イン・ブルー’がどこかで使われるのかなと思っていたのだが、それではなかった。あの歌曲をこんなふうに調理するのか…と驚きつつ、楽しく読んだ宮下さんの新刊。
とっかかりの言葉から情景をフラッシュバックさせて現在に結びつけていく巧さはいつもどおりなんだけど、後半はちょっとやりすぎとも感じられるほど。作家の職業病的な「言葉遊び」がこの控えめでお喋りではなかったはずの主人公のパーソナリティとマッチしていたかという点には疑問符がつく。
大半のエピソードは主人公が仕事で通うようになった横江家での小さな出来事。男ばかりのその家の人々のひと言ひと言がいつしか頑なだった彼女の心を解していくのだが、彼女の変化は同時にその家族の関係も変えていく。

 いろんなことを素通りしてきた。うれしいとか、悲しいとか、心が揺れるようなことから距離をとってきた。それはそれでいいのだ、それしかやりようがないのだ、と思っていた。でも、ずっとこのまま生きていくとしたら、私は永遠に自転軸から遠いところで、引力とは別にくるくるとじぶんだけで回る独楽みたいなものだ。誰かを寄せつけず、寄り添わず、誰にも振り返られず、ずっと、ひっそりと、ひとりで。


「ぼろい団地」に母親と二人で暮らす19歳の佐古は未熟児で生まれたせいで、ずっと自分には何かが欠けていると思って生きてきた。他人との会話で語尾がうまく聞き取れなくなる癖を自覚していて、うなづいたり素っ気ない相づちを打つことで無難にやり過ごしてきたつもりだ。
聴覚の異常なのか適応障がいの症状なのかは明らかではないのだが、自己規定して生きることの息苦しさ、大切なものを遠ざけて生きる生きづらさは容易に想像できる。口をつぐんで、声を押し殺してうつむいてばかりいる。それは防衛本能のようなものなのかもしれないけれど、耳をふさいだままでいれば聞こえづらくなくなるし、見えているものも見えづらくなるだろう。
「自分には何かが足りない」― そう思いながら生きているのはあなただけではない。そんなメッセージにも気づけなかったかもしれない。



自分の居場所を見つけられなかった彼女が仕事で訪れた横江家に居心地の良さを感じ始める。その家は男だけの所帯で、そこの主人がしている額装の仕事を手伝うことになる。
絵や写真を保護して飾っておくための額と、それにまつわる所有者の記憶や思い出を一緒に飾る額。言うまでもなく「額」は「窓」であり、窓のこちら側しか知らなかった(見ようとしなかった)佐古が向こう側からも見るようになっていく物語だ。世界の反転、新世界の発見と言ったら大仰になるが、これまで吹きこむことのなかった風に初めて洗われる清々しさに、さしこむ陽のまぶしさに、彼女の小さかった芽がぐんぐん膨らんでいく。その勢いの良さが嬉しかった。

 「しなくてもいいや、って思っちゃえばたしかに平穏に暮らせると思うの。いろんなことに距離をとって、近づかないようにして、何にも執着しないで生きられれば楽だよ。だけどね、なんでもかんでもなくていいって思えるようになったらね」
 そこまでいったところで喉が詰まった。後を続けられなかった。なくていい、しなくてもいい、と思いながら生きてきたのは私だ。


高校卒業までの18年間の、おそらくあまり愉快なものではない経験を多くは語らずに、19歳の現在に光を当てる。
横江家で「頭が良い」とか「大きい」とか「自由だ」と初めて評されてうろたえる主人公は前半のと同一人物に見えないのだが、それぐらい‘ご褒美’としていいではないかと思える。
佐古は中学時代から同じ自転車を使っている(チャリとかチャリンコではなく「自転車」)。本当に欲しかったのではない黄緑色の自転車。変な名前をつけたその自転車に今日も乗って横江さん宅に行く。親が買ってきた自転車を見た瞬間の落胆。なんでみんなと同じのを買ってくれないのか、子ども心に反感を持った記憶がよみがえってきた。勉強机も運動靴も、親はいつも変なのを買ってきた。そのせいで感じていた焦燥はマイナスだったのか。
何かが足りないのは彼女だけではない。そう思ったのは、自分が佐古だったかもしれないからである。
この小説には忌まわしき携帯電話が出てこない。急がせない。切り取って額に入れておきたくなる光景に、そんなものは不要なのである。



作品中にエラ・フィッツジェラルドのレコードから採りあげられているこの子守歌。ビリー・ホリデーからマリア・カラスまで幾多の名歌手が歌ったジャズ・スタンダードだが(元歌は‘Motherless Child ’ 時には母のない子のように)、自分にとってはこの‘みにくいアヒルの子’、入魂の絶唱にとどめを刺す。耳もとでこんなふうに歌われたら眠るどころじゃなく大泣きしてしまいそうだが、しかしこれは孤独なつらい青春時代を送ったジャニスが自分で自分のために歌うしかなかった子守歌だった。母に抱かれて聞きたかった歌を自分で口ずさむ。それはブルースになり、そして彼女は白鳥になった。