中脇初枝 / きみはいい子


購読している中日新聞県内面の「あのねあのね」。読者投稿による子どもたちの何気ない言葉を紹介する小コーナーなのだが、毎回くすり笑わされたり、驚かされたり。


  ・(外出先から帰るとき、すっかり陽が暮れていました)
    母「暗くなっちゃったねー、まっ暗だねー」
    子「誰が消しちゃったのかねー」


  ・(横で寝ている父親の怪獣みたいないびきにたまりかねて)
    子「もー、パパの鳴き声が大きいもんで眠れない!」


  ・(野菜を食べさせようと4歳の娘に)
    母「このほうれん草食べると美人になれるよ」
    子「もう美人だから大丈夫!」


こういうのにはかなわないのである。


宮下奈都さんの帯文で買ったこの本。「あのねあのね」とは真逆の親子関係が書かれている。
児童虐待をテーマにした連作短篇集。むかむかする描写がある。ぞっとして暗鬱な気分にもなったのだが、自分に何が言えるのか。感想は書きづらい。なるべくニュートラルな心持ちで振り返ってみる。



中脇初枝 / きみはいい子 / ポプラ社 (319P) ・ 2012年 5月(120630−0702)】



・内容
 夕方五時までは家に帰らせてもらえないこども。娘に手を上げてしまう母親。求めていた、たったひとつのもの―。それぞれの家にそれぞれの事情がある。それでもみんなこの町で、いろんなものを抱えて生きている。同じ町を舞台に、誰かのたったひとことや、ほんの少しの思いやりが生むかもしれない光を描き出した連作短篇集。


          


子どもが虐げられる話は悲しいに決まっているので、そこにどんな惨い光景が描かれていたとしても過敏な反応は避けたい。現実にはもっと酷い仕打ちに今も泣いている子どもがいる。
これを読めば絶対に虐待しないという魔法がこの本にあるわけではない。これから親になろうとする若い人には良い影響を与えるものであってほしいとは願うけれど、悪い影響を与えないとはかぎらない。
本当に書かれるべきは「あなたの子どもを虐待しないためのマニュアル」だが、書かれないのは通用しないのがわかりきっているからだ。気がついたら。どうしようもなく。つい。他人にとやかく言われる筋合いはない。ケース・バイ・ケース。「幸福な家庭は一様に幸福だが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である」―ロシアの文豪のいうとおりである。

 「だから、なんでまま母の話が多いかっていうと、つらい思いをさせられてるまま子が、ほんとにいっぱいいるからなんだよ。昔話があるくらいの昔から。」
 「だいちゃんは白雪姫か。」
 「でも大丈夫。みんな必ず、最後は幸せになるから。」


読んでいて苦しい。字面を追いながら、心はかつて机を並べた級友たちの顔々を思い浮かべていたりする。彼らの中にもこの登場人物がいたのではないか、もっちゃんが、だいちゃんが、神田さんが、あやねちゃんが……
読んでいて苦しいのは、子を打つ親の心理がわかった気がしてくるからである。あんたに何がわかる?という、まさにそういう気持ちすらも。一方、打たれる子どものことを思えば暗澹とした気持ちになる。フラットに双方を見つめて憤ったり同情したりできるのは、これがフィクション小説であり、つまり自分はたんなる読者にすぎないからだ。
放ってはおけない。でも、どうすれば?の繰り返し。子どもは自分が悪いから叩かれるのだと、それが普通のことだと思っている。個人主義の現代の家庭内は治外法権だ。所詮他人には無力なのだという空疎な感想にしか行き着かないのならわざわざ読まなくてもいいのだが、止められなかった。



横浜郊外の新興住宅地を舞台にして、それぞれにゆるやかなつながりを持たせた五篇。
力不足の新任教師の学級に必ず給食をおかわりする、ひどく痩せた生徒がいた−〈サンタさんの来ない家〉。公園と自宅で母親が豹変する〈べっぴんさん〉。早生まれで未熟な息子にどういうわけか転校生が仲良くしてくれる〈うそつき〉。虐待増加の一因と指摘されることもある核家族化の進行は一方で独居老人の増加を招いた。一人暮らしの老婆と少年のささやかな交流を描く〈こんにちは、さようなら〉。幼少期の虐待の記憶をひきずる女が老いてすべてを忘れてしまった痴呆の母親と過ごす皮肉な〈うばすて山〉。
それぞれの背景に社会問題を巧みに織りこんであって、ただ追いつめられた親とかわいそうな子どもの姿が書いてあるだけではない。

 おとなりの307号室に住んでいたおばちゃん。薄暗い階段を上がりきると、うちとおばちゃんの家の玄関がむかいあっている。
 おかあさんがわたしをどなりつけていると、おばちゃんは、きまってピンポンを鳴らして、来てくれた。


親に怒られ叱られるのに慣れた子どもは幼い自分に「悪い子」の烙印を押してしまう。しかし、押させないのは親以外の者でもできる。一度押された烙印を、刻まれた傷を、消してやれるのは本人以外の誰かである。
それが象徴的に書かれていたのが〈うそつき〉で、敷地の境界線をめぐるトラブルを調停する土地鑑定士の仕事を通じて、人と人のつながりを取り戻そうとする。その中に希望も含まれることを鮮やかに描出してみせる秀作だ。
親も孤独、子どもも孤独、年寄りも孤独。社会の変化、ライフスタイルの変化。三世代同居家庭の減少は虐待のみならず、老人の孤独死や地域コミュニティの崩壊とも無縁ではないだろう。原発と電力の問題もそうだけど、少し前の生活に戻ってみるということが考慮されてもいいと思うのだが。
虐待する側、される側の痛々しい心情が書いてある。それを読む‘たんなる読者’である自分には、当事者ではないがゆえにできることがある。他人の壁を越えて。ロックの文豪・清志郎の言葉を思い出す― 「大人なんだろ、しっかりしろよ」