米原万里 / 嘘つきアーニャの真っ赤な真実

2006年に米原万里さんが亡くなったときに「世界わが心の旅」の再放送を見た。当時はこの番組が『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』を下にしてつくられたものだと思いこんでいたのだが、実際には先にNHKのこの旅番組があって米原さんの積年の夢が実現、それから書籍化されたのだということを今回初めて知った。
9歳から14歳までの五年間をプラハで過ごした米原さんが、当時クラスメイトだった三人の親友の消息をたどってヨーロッパを旅し、三十年ぶりの再会を果たす。45分だったか一時間だったかにまとめられた映像の中では、それぞれとの再会の場面がハイライトとして構成されていたと記憶している。



米原万里 / 嘘つきアーニャの真っ赤な真実 / 角川文庫 (301P) ・ 2004年(120729−0802)】



・内容
 1960年プラハ。マリ(著者)はソビエト学校で個性的な友達と先生に囲まれ刺激的な毎日を過ごしていた。30年後、東欧の激動で音信の途絶えた3人の親友を捜し当てたマリは、少女時代には知り得なかった真実に出会う! 第33回(2002年)大宅壮一ノンフィクション賞受賞。
 

          


チェコに移住した米原さんが通った在プラハソビエト学校には50カ国以上もの国々の生徒が集っていたという。それでも東洋人は少数派であっただろうし、ましてや自由主義陣営の日本人子弟がロシア語で授業を行う学校に通っているというのは、そうとう珍しかっただろうと思う。客観的に見て、米原さんの方がこの学校の中でちょっと特殊というか異質なのではなかったかと思われるのだが、そのような件りは一行も見あたらない。
インターナショナルスクールではそれが当たり前なのかもしれない。学校での生徒たちの様子を読むと、総じて日本の同年代よりもはるかに大人びていて社会性も高く、子どもながらにアイデンティティの意識も愛国心も強い。隣に外国人がいるのが珍しくはない環境で育ち、生きていかねばならないことを幼い頃から自然に身につけている。そんな中に一人、日本人の米原さんはいた。米原万里米原万里になった原点がここに記されている。

 この愛国心、あるいは愛郷心という不思議な感情は、等しく誰もが心の中に抱いているはずだ、という共通認識のようなものが、ソビエト学校の教師たちにも、生徒たちにもあって、それぞれがたわいもないお国自慢をしていても、それを当たり前のこととして受け容れる雰囲気があった。むしろ、自国と自民族を誇りに思わないような者は、人間としては最低の屑と認識されていたような気がする。


日本でロシア語通訳者として生活していた彼女は、80年代後半に相次いだ社会主義圏崩壊の報に触れるたび、プラハの級友たちのことが気になって仕方がなかった。彼女たちは今どうしているだろう。無事でいるだろうか。いつしか疎遠になって、手紙も電話も通じなくなっていた。矢も楯もたまらず米原さんはヨーロッパに向かう。彼女が帰国するときに贈られた一冊の「思い出帳」だけを頼りに。
有り体に言えば、三十年もの年月を越えて旧友と再会するのは誰にとっても嬉しいドラマである。ただ、本書の場合はその旧友がギリシャ人とルーマニア人とユーゴスラビア人ということで、悲観的な予想を容易にしてしまう。国際化が進んだとはいえ、ほとんどは自国で生まれて自国で死んでいく日本人には想像しがたいがゆえの、安易な予想である。



米原さんは三人と再会を果たす。ソビエト学校時代のエピソードをオーバーラップさせながら語られる三人のヨーロッパ人の「その後」。同級生時代の話題は尽きることなく昨日のことのように思い出されてノスタルジーを共有できるのに、現在の彼女たちは自分とはかけ離れた、あまりに遠い地点に生きていることを痛感させられて、米原さんは途惑い、胸を詰まらせる。読んでいる自分の胸も詰まる。
社会主義の終焉とか、冷戦終結とか、ほんの二十年前の歴史も整理され最小に要約された見出しでしか記憶されない。何代にも渡って良き隣人だった人が、ある日を境に敵になり、殺し合った。実際にユーゴで起こったことである。国、歴史、文化、民族感情、社会体制、宗教が複雑に絡まりあって、なおその土壌の上に個人が暮らして、生きねばならないことへの想像力は自分には持ちえない。
海外文学を読んでいて必ず感じさせられる、(自分にはおなじみの、厄介なあの)ある種の「壁」の正体が、ここにはまことに自然にさらりと記されている。

 「私だって、イスラム教を信じているわけではないし、自分がムスリム人だなんて戦争になるまで一度も意識したことがなかった。でも、ムスリム人の両親から生まれているのだから、ムスリム人を否定するのも馬鹿げているし。自分はユーゴスラビア人だって、ずっとずっと思ってた。それが、今度の戦争が始まって、否応もなく誰もが意識せざるをえなくなった。人間関係が、たちまちギクシャクして壊れていった」


プラハの春から東欧の民主化ソ連の解体、さらにボスニア紛争まで。本書は現代史とその中を生き延びた個人史(の一例)を見事に融合させている。主人公でもあるはずの米原さんがナヴィゲーターに徹しているのは、まずドキュメンタリー番組制作という条件もあったのだろうが、第一にジャーナリストとしての優れた美質があったからだろう(自分の父親のことも隠さずに書いている)。そして、取材者の自制の殻を突き破りそうになる躊躇と葛藤から零れおちてくるものに彼女のパーソナリティはよく顕れる。
三十年ぶりの再会劇は感動的だが、互いに当時と同じではないのもよくわかる。体制転換に翻弄される市民(民族)の歪形と滅形は痛ましく、幼い頃の記憶を共有する肉体を寄りそわせてはみても、あの頃に戻ることはできない。米原さんの胸にしこりは残ったのだが、しかし、逆にいかに政治体制が変わろうとも友情は不変であることも伝わってくる。
大好きだったヤースナがサラエボにいるかもしれないと聞いて、米原さんは陸路も空路も封鎖されたベオグラードから行く方法はないのかとガイドを手こずらせる。彼女が大事にしていた思い出帳は、寄せ書きした仲間たちの生の証明でもある。もう一度、それを証明するための旅の記録は‘打ちのめされるようなすごい本’として残された。