青山文平 / 白樫の樹の下で

【 青山文平 / 白樫の樹の下で / 文藝春秋 (256P) ・ 2011年 6月(120803−0806)】



・内容
 賄賂塗れの田沼時代から清廉な定信時代への過渡期。御家人3人の剣術仲間を巻き込む辻斬り「大なます」。傑作時代ミステリー。 第18回松本清張賞受賞作


          


『かけおちる』が素晴らしかった青山文平さん。前作も読んでみた。
まず驚くのは、この作品は章立てではないこと。冒頭から最後の一行まで時系列に沿って進む。登場人物の説明として過去のエピソードや回想が部分的に挿入されてはいるが、基本的には現在進行形で主人公の貧しい下級武士・村上登の行動を追う流れで終わりまで行ってしまう。
一台のカメラだけで延々と長回しに写したフィルムを見ているような気分にさえなったのだが、こうして一冊まるまる目線が変わらない小説は、あるようでない。策を弄せず一息の勢いで書いたかのような語り口には、確かに一気に読ませるだけの筆力があるのだった。

 ふだんはそこにない、たった一口の(ひとふりの)刀があるだけで、見えなかった蓋が開き、見えなかったものが噴き出る。
 きっと、いつも何気なく歩いている路には、そんな蓋がそこかしこに待ち受けているのだろう。


この作品も『かけおちる』同様に、武士が武張ってばかりはいられなくなった世を舞台とする。無役の小普請組である村上家は提灯貼りや金魚の養殖などの内職をしていて、母と姉も裁縫仕事をして糊口を凌いでいる。村上の幼なじみは井戸掘りや屑拾いまでしている。武士を英雄的に描く従来の時代小説ではめったに描かれることのなかった武士の生活苦にスポットを当て、そのうえで彼らに武士とは何か、どうあるべきかを自問させているのは慧眼である。当然、武士の「武士とは」の問いは「自分は何者なのか」という問いであり、時代物とはいえ書かれているのはアイデンティティ・クライシスである。
武士でありながら真剣で斬り合った経験がない。剣術に自信はあっても、実際に人を斬れるのかは自信がない。そんな村上がひょんなことから身分不相応な刀を預かることになる。腰に差していれば、使ってみたい衝動も抗いがたく湧いてくる。折しも江戸の治安は悪化していて、強請りやたかりが横行し、残忍な辻斬りが出没していた。事件に巻きこまれた主人公は…という流れで物語は進む。



幼なじみ同士の友情と反目、はかない恋、辻斬り犯をめぐるミステリなどの多彩な要素を含みつつ、主人公と下手人が対決する終幕まで物語は区切りなく転がっていく。
主人公のつかのまのロマンスは実に奥ゆかしくてプラトニックな関係に身悶えしそうだったのに、あっけなく終止符が打たれる。同じ境遇の三人の仲間の友情にひびが入って、修復されるのだろうと期待させながら、全然そうはならない。それぞれがそれだけで一篇に仕上げられそうな好ましい挿話なのに、乱暴ともいえる無粋な扱いで情緒的盛り上がりを断ち切って次の展開へと移行する。それはエンターテイメントとして成立するのをぎりぎりのところで拒むかのような身の翻し方だった。
どうやらこの作品の影の主人公は「太刀筋」や「剣気」といったものであるらしかった。

 人が斬れない人を斬れるのが武士であるとするならば、登たちは武士とは言えない。
 しかし、いまならば斬れる。
 手の内に届く斬撃を喜んで引き受け、血潮を浴びることができる。


終盤はやや駆け足になった感はある。作品としてのまとまりは『かけおちる』の方が一段も二段も上だ。
でも、ストーリーや作品の出来よりも、この作品最大のインパクトは著者独特の日本語の切れ、冴えである。時代小説というジャンルにもかかわらず、日本語にはまだこんな斬新な清冽な表現が可能だったかと目から鱗が落ちる思いで読み、読み返した文がいくつもあった。
たとえば、村上が手にした刀の感触を説明するこんな一文。「竜骨のごとき峰が導く絶妙な反りが、叩き斬る意志を漲らせている」 自分は刀剣などにまったく明るくないが、ここの文章はもう無条件に嬉しくなったものだ。
本作中に一貫して主人公がこだわり続けて最後に迸らせる「剣気」への凄まじい執着は、おそらく著者の「筆気」の表れなのであろう(そんなものがあるとすれば、だが)。武士にとっての刀は著者のペンということである。深読みしすぎかもしれないが、実際に紙面に剣を自在に走らせるのは文字の連なりなのだから、硬質にして流麗な言葉の切れ味、言葉に対する鋭い感覚こそがこの作家の真骨頂なのは疑いようがない。
主人公を最後のところで必ず情緒的に動かさないのも、著者が充分に情緒を解しているからだ。だから苦さはあっても、それがけっして悪い後味にならないのだ。