横田増生 / 評伝 ナンシー関


友人に借りて何冊か読んだことがあるナンシー関。「聞く猿」「何の因果か」「小耳にはさもう」、それにリリー・フランキーと対談してるやつ。どれも面白かったし、さりげなく名言が散りばめられていて(たとえば、五輪選手の決まり文句に対して「『感動させたい』や『楽しみたい』は今や抑圧である」)、愉快なのに気が抜けない本ばかりだった。


本の感想というより、ナンシー関についての文になってしまった。



横田増生 / 評伝 ナンシー関 「心に一人のナンシーを」 / 朝日新聞出版 (336P) ・ 2012年 6月(120807−0811)】



・内容
 青森から上京してきた18歳の予備校生は、どのようにして「消しゴム版画家」にして名コラムニストとなったのか。他の追随を許さない鋭い批評眼は、いかにして生まれたのか。なぜ、魅力的で非凡な文章を書き続けることができたのか。没後10年、ナンシーを知る人たちへのインタビューとともに、彼女自身の文章に垣間見えるいくつもの物語を紐解きながら、稀代のコラムニストの生涯に迫る。


          


ナンシー関のパーソナリティについてはまったく知らなかったし興味もなかったのだが、「なぜ消しゴム版画だったのか」という疑問は前から持っていた。この異才はどこでそんな技を身につけ、腕を磨き、どういうルートで発掘されてメジャー誌に抜擢されるに至ったのか。
生い立ちをたどると、彼女が通った青森の小学校は棟方志功記念館が隣接する「図工といえば版画」の校風だったとか(寺山修司も同校出身だそうだ)、高校時代に「一週間だけ」消しゴム版画が流行ったことがあったのだという。
関ガラス店の長女・直美が初めに熱中したのは、当時人気だったゴダイゴや(世良公則と)ツイストなどのバンドロゴをはんこにすることだったという件りは自分も大いに共感したところ。ロック好きの少年少女は憧れのバンドのかっこいいロゴを教科書やら教室の机やら所かまわず書きつけたいと思うもので、ロック衝動とはまずそういうかんちがい的なマーキング行動に発現するものなのだ。
東京の大学に進学するも中退した彼女はヒマにまかせて自室ではんこづくりに没頭した。それがえのきどいちろうの目にとまり、いとうせいこうが名付け親となって「消しゴム版画家・ナンシー関」は誕生したのだった。

 さらに、ナンシーが“反権力”や“非主流”という考えを内包するサブカルチャーの洗礼を受けたことは、自らの肩書きを〈消しゴム版画家〉として、決してコラムニストを名乗ることがなかったことにも関係があったと考える。テレビの中で偉そうにする人たちや、権力者然とした人たちを、繰り返し茶化してきたナンシーは、自らがその二の舞にならないようにとの自戒を込めて、その肩書きを権力からは対極にあるような消しゴム版画家に定めたのだろう。


ナンシー関の仕事を時系列に並べて読みこんだうえで、彼女の文と関係者への取材からナンシーの人物像を浮かび上がらせる。
同業といえば同業だが、ノンフィクション作家の著者にとってナンシーは別種のライターで生前面識もなかった。そもそもナンシー関とは何者だったのか? という本書の最初の動機は一般読者に近い。これが彼女と親しかった者の手によるものなら(本書にも登場するえのきどいちろういとうせいこう大月隆寛みうらじゅんリリー・フランキーら)、彼らの‘業界フィルター’を通したナンシー像しか描かれなかっただろう。
ファンの一人として取材に応じた宮部みゆきさんの「テレビのことをピンポイントに論じて社会時評としても成立している。芸能人に興味がない人にも面白く読め、今読んでもけっして古びることがない」というコメントにはまったく同感。
優れたコラムというものは、どんなテーマであっても書き手の姿が表れるものだ。ブッキッシュ(本好き)な読者なら、あらためて自伝評伝の類など読まずとも、そのコラムを読めば彼女がどういう人なのか自ずとわかろうというもので、家族や同級生、編集者たちから集めた証言はことごとく裏表のないナンシーの人となりを確認証明する作業にすぎないようだった。



だから所ジョージビートたけしオールナイトニッポンを熱心に聴き、ムーンライダーズを好きだったという少女時代が少しも意外なものとは感じられない。17歳の関直美も39歳のナンシー関も本質的にはまったく同じ人間であったようなのだが、本当にそうだったとしたら、そのブレのなさ、まっすぐさは逆に一般的感覚からすると異様に思えないでもない(自分がひねくれ者なだけかもしれない)。
週刊朝日週刊文春に同時に連載を持つという偉業を果たした売れっ子ライターになりながら、彼女は両親にその事実を伝えていなかった。彼女の親は上京して人の悪口を書いている娘に害が及ぶのを心配していて、娘の方はいちいちそうではないと説明するのが面倒くさいと思っていた、というのはちょっと切ない。
だが、彼女の心の中に「後ろめたさ」みたいなものもあったのではないか。辛辣なのではなく、ただ率直なだけ。それは文筆家としては芸がないことではないか。24歳で「消しゴム版画家」を名乗って15年、このままでいいのか。これからもこのままやって行くのか。あれだけ客観的な批評眼を持っていた人である。他人事をネタに喰っている自分だけは相対化しなかったとは思えないのである。

「原稿を書くことに関しては、フリーの不安定さというものと大して変わりないんですけど、消しゴムを彫ることに関しては、私自身納得いかない。消しゴム版画で食えてることに納得がいかない感じがある。食わせていいのか!私に。逆に、消しゴムで一生食わせてくれるのか!世の中は、って」


ナンシー関は日々のテレビに映る無芸のタレント、プチ権力者たちを笑い評しながら無力化したが、だいたいの場合において彼らに対して排斥的ではなかった。テレビという変な世界には野球をやめた長嶋一茂のような変な人にも役割や居場所があることを認めていた。直接的な批判ではなく、風刺に変換して視聴者に提示して見せた。そこには常に無批判な嘲笑、愚弄に対する返す刀があったが、それは対等に自分にも向けたものだった。
では自分は何なのさ?という自虐の一歩手前で踏みとどまって芸能批評を書き続けることの息苦しさを微塵も文章に感じさせなかったのは見事な名人芸といえるだろう。王様は裸だと指差すからには、自分が裸ではないことをちゃんと知っていなければならない。明快な彼女の文章には毒を以て毒を制するような痛快なところが確かにあるのだが、実は相打ちに斬り結ぶ覚悟の上で書いていたのではないかと、そんな気がしてくる。ピーク時には十本の連載を抱えていた彼女がノープレッシャーだったとも思えない。
評伝である以上、彼女の死因について書くことは避けては通れない。子ども時代から死の間際まで、ナンシー関のプロフィールはわかりやすいものとしてまとめられている。実際そうだったのかもしれないが、だから余計に、そのままふっと消えてしまったことが、何か腑に落ちない感じがする。
おそらく取材の過程で著者の脳裏にまとわりついていながら深く問うのをやめた項目がある。ナンシー関の短い生涯は幸福だったといえるのか? それと、ナンシー関を殺したのは誰か? この二つである。


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