重松清 / 星になった男 阿久悠と、その時代


  初めてのルージュの色は紅すぎてはいけない / 大人の匂いがするだけでいい

初デート前の乙女のドキドキ感を歌った石野真子狼なんか怖くない’(昭和53・1978年)。憎らしいほど巧い、化粧品CM曲かと思われるほどにあざとい歌い出しである。しかも作曲は吉田拓郎ときた。


  あなたも狼に変わりますか / あなたが狼ならこわくない

いや、その、あの、、、オオカミそのものなんですけど……とはにかんだり、本物のオオカミの怖さを教えてやろうか、お嬢ちゃん?と鼻息荒くした若オオカミだった頃。それがアイドル生産に手練れた男たちの商品戦略だったことに今さら愕然としてみたって仕方ないのだが。



重松清 / 星になった男 阿久悠と、その時代 / 講談社 (290P) ・ 2009年(120810−0814)】



・内容
 昭和の街には、いつも彼の歌が流れていた―「歌謡曲の巨人」と「昭和」の壮大な物語。直木賞作家・重松清が久々のノンフィクション作品としてがっぷり取り組んだのは阿久悠の生涯だった。ピンク・レディー森昌子西城秀樹などへの取材も圧巻。


          


「あなた変わりはないですか」も「上野発の夜行列車降りたときから」も「壁際に寝返りうって」も「背番号1のスゴイやつが相手」も「お酒はぬるめの燗がいい」も「さらば地球よ、旅立つ船は」も、全部同じ人間が書いた。いったいどういう精神構造をしているのかと凡人は疑うしかない。ヒット生産のためならここまで無節操になれるものかという不信感など、これら楽曲群が放った圧倒的なパワーと影響力の前にはたちまち霧消する。
阿久悠という作家は雄弁多筆な人で、自作について語った自著も多く残している。大ヒット曲にまつわる制作秘話は面白いのに決まっていて、よく知られたものも多い。現役時代からその死後まで、この怪物作詞家についてはすでにあらかた語り尽くされているように思われる。
それでも重松清は自分の手で「阿久悠」の足跡を書いてみたかった。それは自分のルーツ、昭和という時代を再確認する旅でもあった。

 それにしても、「叩く歌」というのは、いま振り返ってみても、なんと画期的な発想なのだろう。「心に『染みる』かどうか」が名曲の評価軸だった歌謡曲の世界に、阿久悠はまったく新しい価値観を持ち込んだ。いや、しかし、そもそもヒット曲の「ヒット」とは「打つ」「当たる」の意味ではなかったか。
 もう少し正確に言い直そう。
 ここで阿久悠が言っている「叩く歌」とは、いわば「ヒットさせるための歌」― 時代の、あるいは大衆の、どこをどう叩けば響くかの狙いを定めて放つパンチだったのではないか。


冒頭、重松は「津軽海峡冬景色」の原風景を見るために青森に行く。もちろん上野発の夜行列車で、だ。
しかし……ふと疑念がよぎる。これを書いた阿久悠本人は実際に津軽まで行ったのだろうか。代表曲をエッセイ風に紹介した『歌謡曲の時代』にも作品集CD『人間万葉歌』に付された解説にも、彼が青森への旅から着想を得たとは一言も書かれていないのであった。
津軽にも能登半島にも火の国へも行かずに作詞してしまう(石川さゆりの芸名から石川県出身と思いこんで「能登半島」を書き、熊本出身と知って「火の国へ」を書いた)。しれっと旅情を詞にしてしまえる。阿久悠とはそういう作家だったというのは一面の真実と思うのだが、空振りも勇み足も厭わずに実直な作家は律儀に現地ルポをする。この作家性のギャップが好ましくも面白く、ヒントは山ほどあるにもかかわらず実態は雲をつかまされるばかりであるような‘フェイク・スター’、‘トリック・スター’的な阿久悠の存在感に生真面目一本の重松清がどれだけ振り回されながら、どこまで迫れるのかを楽しみつつ読んだのだった。


          


ヒット曲の裏話を知りたがるのは下世話なことかとも思うのだが、昭和四十年代から五十年代に、たかが一枚のレコードに注ぎこまれた精力の量、三〜四分のシングル盤にこれでもかと盛りこまれた濃厚なエンターテイメント性にはやはり唖然とさせられるばかりだ。
ピンクレディー「サウスポー」は歌入れまで終わってあとはプレスを待つだけという段階で詞も曲もすべて作り直しになった。期限は二日。阿久悠と都倉俊一がたった一晩で書き直して発表されたのが、現在知られるあの「サウスポー」である。
この作品は‘詞先’だったというのだが、あんな奇天烈な歌詞に曲を付ける方も付ける方で、しかもあの完璧なまでにドラマチックなアレンジ(!)。天才どうしか狂人どうしか、いったいどういう波長でイメージを共有していたのか。プロフェッショナルな者たちの奇跡的なコラボレーションが当たり前の商品になっていた時代。それは消費者にとって幸福な時代だったのかもしれない。
昭和から平成の現代へと、ポップスが身近な感情をありのままの飾らない言葉で歌う方向に流れていったのは自然なことのように思えるけれど、言葉の重みをどんどん失くして聴き手の想像力を刺激しなくなっているのもまた反面の事実である。情報は増えているのに心に引っかかる言葉は少ない。プロの作詞家に居場所がないのは不幸である。

(今回BGMとして阿久悠作品集『人間万葉歌』をずっと聴いていて、初めて山本リンダフィンガー5をちゃんと聴いたのだが、たまげた。これがあってピンクレディーがあったのかと納得したのだった)

 時代の追い風も吹いた。
 当初、阿久悠がつけたタイトルは『恋のカーニバル』だった。だが、それをレコーディング後に歌詞の最後にあったフレーズ『どうにもとまらない』に変更したことで、タイトルそのものが流行語になった。
 七月、田中角栄は首相となり、世論調査で七十%前後の高い支持率を得る。九月には日中の国交が回復し、その一方で地価や物価が急騰して……どうにもとまらない。


世間によく知られていて社会的評価も固まっている人物をあらためて書くことは冒険的で勇気のいることだったと思う。ここには新たな阿久悠像が描き出されているわけではないが、華々しい絶頂期が過ぎ、小説や時評コラム等の執筆活動に軸足を移していった平成に変わってからの阿久悠をも同じ熱で見つめる姿勢に共感した。
時代の移ろいと流行歌の変遷(あるいは衰退)は阿久悠自身も自覚的に指摘・分析していたのだが、著者はより客観的に見れる位置に立って、「阿久悠のいない今」を見る。ややもすればノスタルジックな「あの頃は良かった」式の現代批判に陥りがちな社会と歌の時代論を、阿久の父性と職人気質な作家性を切り口にして成立させている。
ひっくり返ったって重松清には「サウスポー」や「勝手にしやがれ」みたいな作品は書けない。でも、粘り強く阿久の言葉を読み解いて小説家の感性で対抗した。歌もまた故郷の一部であると思わせる筆致には、どこか戦争体験が薄れゆくことへの危機感と同じ切迫を感じさせた。
自分流の変換装置でこじつけをすれば、「阿久悠を必要としない時代」は「ナンシー関を必要とする時代」になっていった、ということになる。


阿久悠作品の中で最も好きなのは高校サッカー選手権テーマ曲「ふり向くな君は美しい」。自分にとってはほとんど「ロッキーのテーマ」と同じ身体的作用を引きおこす(つまり若返っちゃうのである、一時的にだが。)これをCDとして持てるだけで『人間万葉歌』を買った甲斐がある。
そして、飽きることなくリピートしながら歌っちゃうのがこれだ!(自分の息子に太郎と名づけた阿久悠はこの仕事を快諾したという)↓