赤坂真理 / 東京プリズン


八月十五日にこれを読み始めたのはまったくの偶然だったが、盆休みで助かった。久しぶりの一気読みになった。

読んで良かった。それ以前に、よくぞこれを書いてくれたと著者に感謝したい気持ちになった。けして読みやすくはないし、重い、堅苦しい内容ではあるけれど、自分と同世代の作家がこういう作品を書いたという事実がとても嬉しかった!



赤坂真理 / 東京プリズン / 河出書房新社 (441P) ・ 2012年 7月(120815−0818)】



・内容
 戦争を忘れても、戦後は終らない……16歳のマリが挑んだ現代の「東京裁判」を描き、各紙誌で“文学史的事件”と話題騒然! 著者が沈黙を破って放つ、感動の超大作。


          


恥ずかしながら自分は日本の近・現代史をあまり知らない。現代日本の土台となった祖父母や曾祖父母が生きた百年を、歴史教科書の後ろの方に載っている、断絶した時代としか認識できない。
学校の授業では日清・日露戦争以降は年度末に駆け足で教科書を一読して、太字の年号と用語だけ慌ただしく説明して終わりという感じだった。高三当時には、近代はほとんど入試に出題されない(だから勉強しなくても大丈夫)とまで聞かされていたように思う(現在もそうなのかどうかは知らない)。
『東京プリズン』の中にショックを感じた箇所があった。自分たちが自国の敗戦についてまともに教えられていないのは、授業時間が足りないのでも受験に不要だったからでもない、教えるに教えられなかったからだと書いてあったのだ。
解釈が絡んで教えるのが面倒だった? そもそも戦後処理ははじめから曖昧で、教える方もどう教えればいいのかわかっていない? 国民全員がその事実を忘れたがっていた? 本当はタブーでもなんでもないのにタブー視してしまった方が楽だった?
一方で、戦争はいけない、二度と過ちは繰り返さない、と念仏のように唱えさせられてきた。何をどう過ったのかは知らされないままに。

 とても不思議な感じがする。
 私の国の秘密といっていいくらいの。
 そして私の国で、大人たちは何かを隠して生きるようになった。


1964年生まれの著者は自伝的要素を多く含むこの作品を書くにあたって、あらためて「天皇の戦争責任」や「東京裁判」という戦後処理の問題を引っぱり出してきたわけではないだろう。おそらく若い頃からずっと、彼女の胸の内のどこかにひっかかっていたにちがいない。「親が子どものときに戦争を経験している」同世代だから、なおさら自分にはそう感じられるのかもしれない。
天皇の戦争責任」というフレーズを耳にするのはずいぶん久しぶりで懐かしく感じるほどだったのだが、自分が若い頃には(昭和=昭和天皇の時代)新聞、雑誌でもテレビでもこの七文字はよく目にしたものだった。たとえ右と左で物別れして決着がつかない前提だったとしても、社会にその議論のための場はあった。



いつしか天皇制の是非すら問われなくなった2012年に、著者は小説のテーマとして「天皇の戦争責任」をここに掲げた(『文藝』連載は2009年開始)。これまで歴史学者や政治家が試みたことのないやり方で、つまり小説でしかできない方法で、現代に突きつけてみせた。
天皇の戦争責任」というとどうしても身がまえてしまうが、実は15歳の主人公が問うているのは1945年時点の天皇の罪ではない。国民的議論もなく「一億総ざんげ」のムードの中で天皇制は当たり前のごとく維持され、誰もその経緯をよく知らないまま数十年も見過ごしてきたことへの純粋な驚きである。自分が生きている現在があまりに論拠の薄い基盤の上に成り立っているのを知ってしまったことへの戸惑いと焦りである。自分の国の主体性のなさに対する怒りも、少し含んでいる。
主人公・マリは著者の代弁者だが、多くの日本人が知らんぷりしてきた事実を肉体化しようとする存在でもある。学者や評論家には期待できない素朴な、だが自然で核心的な自問自答が展開されるのだが、少女の個人的体験から導き出された実感としての歴史認識がこんなに爽快なものに感じられるとは思いもよらなかった。

 それは、かつてないなめらかな言語体験だった。
 「私は、日本の天皇ヒロヒトを、第二次世界大戦戦争犯罪人であると考えます」
 論理的に言えば、最高責任者が責任を問われるほうが、そうでないよりずっと自然だった。
 これは私が言いたかった言葉であり、言いたくなかった言葉だった。これ以上何を言えるのかと思った。


この作品では15歳のマリと並行して45歳になった彼女の現在も描かれる。過去の自分と現在の自分、または現在の自分と未来の自分。同一人物なのに複眼的な視点を設けることによって、この三十年のあいだにマリ個人にも、マリの家族にも、戦後処理の問題が起因となって暗い影を落としていたことが暗示される。
東京裁判で戦争はすっかり清算されたかのように、リセットされたかのように戦後の日本人はふるまってきた。それはもう必死に一途に復興に邁進した裏で、同じ熱量でもって振り返るのを止めたのである。そこに敗戦の記憶を消去したいという国民的心理がなかったとはいえないだろう。
それは小説でもそうで、社会構造の歪みや人間関係の崩壊を描いて「生きづらさ」を伝える作家は多いのに、その根本の原因を終戦(敗戦)にまでつなげて考えようとする作品は少なかった。(玉音放送の文言を小説内に読んだのは奥泉光『神器』以来のこと)
もっとじっくり読んで、マリと母親との複雑な関係性や、メタファーとして随所にはさまれるマリの奇妙な夢や幻視体験の意図を読み解かなければならなかったのだが、気持ちが逸ってどんどん先へと読んでしまった。再読は必須。

当然ながら、赤坂真理と『東京プリズン』が巻頭特集の『文藝』2012秋号は本書テキストとして最適。
誰もが動かないと信じていた錆びついたドアをぐっ、ぐっとこじ開けるかのような推進力と、読者をとらえて離さない凄まじい集中力には海外文学テイストが漂っていて圧巻。本年ベストの一冊! 今年No.1はこの作品でいい。



(もし、ここから日本人論を導き出せば、現在のいじめ問題から沖縄の基地問題オスプレイ配備の問題、南北国境の島々の領有権問題も、それに福島と原発の問題だって、何にだって全部関連づけて説明できそうな気がする。決断力のなさ。安全が確認されれば。とりあえず現状は維持、できればなかったことに。日本人は本当に勤勉な民族だろうか? 戦後処理の不首尾はけっして過去だけの問題なのではなく、むしろ現在に尾を引いて様々に形を変えて現れてくる。日本の問題なのだから日本人は逃れられない。そして、どんどん首は絞まっていくのである。)