サン=テグジュペリ / 星の王子さま


永らく岩波書店保有していた著作権が切れたとのことで、現在日本には「星の王子さま」が何種類もある。児童向け絵本から大人のメルヘン的な本まで。訳も池澤夏樹倉橋由美子、河野万里子から辛酸なめ子までヴァリエーションに富む。
今回あらためて手に取ったのは、管啓次郎さんによる新訳だったからだ。



サン=テグジュペリ / 星の王子さま / 角川文庫 (158P) ・ 2011年 6月(120806−0825)】


LE PETTIT PRINCE by Antoine de Saint-Exupery 1943
訳:管啓次郎



・内容
砂漠に不時着した主人公と、彼方の惑星から来た「ちび王子」の物語。人の心をとらえて離さないこの名作は、子供に向けたお伽のように語られてきた。けれど本来サン=テグジュペリの語り口は淡々と、潔い。原文の心を伝えるべく新たに訳された王子の言葉は、孤独に育った少年そのもの。ちょっと生意気で、それゆえに際立つ純真さが強く深く胸を打つ。「大切なことって目にはみえない」― 感動を言葉通り、新たにする。


          


中学だったか高校だったか、夏休みの宿題、読書感想文を書くためにこれを読んだ。短いし文章は平易だし、子どもながらにぱぱっともっともらしいことを書けそうな本だと思って選んだのを憶えている。短時間で斜め読みして適当な感想を書いて、それでコンクールに入選した嬉しくない思い出がある。
今回は管啓次郎さんが翻訳ということで買ってきた。八月の寝苦しい夜、この文庫本を枕元に置いておいて一章だけ読んで寝るという日が続いた。毎晩、少し胸が痛んで「ああ!……」とため息を吐きながら枕に突っ伏して無理やり目を閉じたのだった。



だから感想を書くには、その「ああ!」の正体を突きとめなければならない。それは「ちび王子」の孤独が胸に刺さったとか、王子の純真さに心が洗われたとか、そんな他人事の同情やフィクショナブルな共感ではなかったのだ。自分が王子が指摘する「変な大人」の一人であることは、言われなくてもとっくに承知しているし。
もはや過去より未来の時間の方が短くなってしまった自分は今さら純情になんてなれないし、童心に還ってなんかいられない。焦燥や後悔やら自責やらが一緒くたになって押し寄せてくるのを見まいとして、眠るのを急いだ。正視したくないものを突きつけられて答えに窮する恥辱を味わわされる前に。
だが、心が疼いたのはそればかりではなかったはずだ。王子と飛行士「ぼく」の問答に、もっと切実で直接的な何かが暗示されているように感じていたのに、それが何だったのかわからなくて、気持ちがすっきりしない。
一つだけはっきり言えるのはこういうことだ。この本は残酷だ。

 「ある日にはね、おれは太陽が沈むところを四十四回見たよ!」
 そして少しあとで、こうつづけた。
 「あのさ……すごくさびしいときって、太陽が沈むところが好きになるよね……」
 「四十四回見た日って、そんなにさびしかったの?」
 ちび王子は答えなかった。


かつて読んだ内藤濯・訳の岩波オリジナル版も先日読み返した。オリジナル版は王子を「王子さま」「ぼっちゃん」と呼び、です・ます調の優しく語りかける口調。この管啓次郎・訳版では「ちび王子」。これだけでずいぶんイメージが変わる。高貴な身分ではあっても、やんちゃで利かん気が強い少年らしさはこちらの方がより強調されていて、それだけに、「ぼく」の王子への愛着もビビッドに伝わってきた。
全般的に、詩人でもある管啓次郎の訳の方が洗練されていて(当然現代的でもある)主人公ふたりが生き生きとしているが(それと名脇役のキツネも!)、それもオリジナル版あってのことだろう。

          


星たちが瞬いているのを見ると笑いがこみあげてくる。五億の鈴。薔薇園の五千本より自分の一本のだけの薔薇。黄金色の麦畑と王子の髪。砂漠の中の井戸。「大切なもの」がどこにあるか、王子の言葉を通して読者は知ったような気になれるが、では、テグジュペリがいう「大切なこと」とは何か、どうしてそれが大切なのかが自分の心にひっかかっていた。
作品の中には一度もその単語は使われていないけれど、うっすらと「自由」ではなかったかと、この頃考えるようになった。一つずつ全部が違う星や薔薇なのに、全部同じにしか見えないとしたら。個性を無視して、みな同じに見なそうとするのなら。それは全体主義者の目と似ていないだろうか。
あんたは本当に自由かい? あんたの目は濁ってないかい? 「ちび王子」にそう訊かれているように感じられて、自分はまごついたのかもしれない。彼の惑星B621は笑っている。自分の目はそれを見分けられるだろうか。