最相葉月 / 星新一 一〇〇一話をつくった人


『日本SF精神史』もそうだが、この評伝も「日本SF大賞」受賞作なのだった。



最相葉月 / 星新一 一〇〇一話をつくった人 / 新潮文庫 (上404P、下477P) ・ 2010年 3月(121014−1020)】



・内容
 『ボッコちゃん』『ようこそ地球さん』『人民は弱し 官吏は強し』…… 文庫発行部数は三千万部を超え、いまなお愛読されつづける星新一。1001編のショートショートでネット社会の出現、臓器移植の問題性など「未来」を予見した小説家には封印された「過去」があった。関係者百三十四人への取材と膨大な遺品から謎に満ちた実像に迫る決定版評伝。(単行本は2007年刊)  《第28回(2007年) 日本SF大賞受賞》


          


上下二巻だが、上巻は作家・星新一(1926-1997)というより星製薬の創業者であり社長の父親・星一に関する記述が多い。評伝を書くとき、その人物がどんな環境で育ったかを省くことはできない。星新一の場合、父親が戦前・戦中の日本で知らない人はいなかった大企業社長で国会議員も務めた著名人で、これがまたアメリカへペルーへ満州へと事業を広げ、阿片だモルヒネ製造だと波瀾万丈に生きた野心家だったので省くにも省けなかったのだろう(しかも母親は森鴎外の家系である)。新一ひとりについて調べるのも大変だったろうに、政財界はおろか軍部にまで顔がきいた父親のことも書かねばならなかったのだから、著者の苦労は想像に余りある。
御曹司として育った親一は戦時は帝大生だった。農学部に籍を置き、二十代前半の若さで父の跡を継ぎ社長に就任する。……ここまでほぼ実業界の話に終始して、親一の学生時代に文学的素地や将来の作家活動につながるような予兆はない。
その男がいつ、どこで親一から「新一」に変わるのか。SFのエの字もない環境にいたお坊ちゃんがどうしてSF作家になんてなっちゃったのか!? 来るべきその機を待って、ちょっとワクワクしてくるのだった。

 SFを牽引してきたにもかかわらず、SFが盛り上がるころには、SFの読者は自分から離れている。なんとも皮肉な話ではないか。
 柴野拓美は、「ぼくは星雲賞もらえないの?」 と新一に訊かれ、「ブラッドベリヒューゴー賞もらってないよ」 といってなぐさめるのだった。


『戦後SF事件史』にも書いてあったとおり、親一のあずかり知らぬところで(「探偵小説の庇の下で」)日本SFシーンの胎動は始まっていた。「星雲」、「宇宙塵」。空飛ぶ円盤研究会(三島由紀夫は会員番号12だった)。1959年、SFマガジン創刊。気運は高まっていた。あとは人気作家の登場が待たれるばかり。参謀総長江戸川乱歩、仕掛け人・矢野徹のコンビが、親父の会社をつぶして失意のままSF同人会にさまよいこんだ青年に目をつけていた。海外SFを読むようになった親一の運命の一冊は『火星人記録』だった(…やっぱりつながっているものだ)。
ここまでが上巻で、下巻でやっと作家の評伝らしくなってくる。
ショートショートでいきなり直木賞候補になるものの、「人間が書けてない」という理由から落選。要するに、どろどろした部分がなければ文学ではないというわけだ。一方、都会的で軽妙な彼のセンスに気づいた敏感な編集者たちもいて、仕事は着実に増えていった。「エヌ氏」の登場、無機質だが乾いたわかりやすい文体の確立(「太宰とは逆の方向」と新一自身は語っている)。日本人SF作家第一号が誕生する。



「読む方は短時間で楽しめるが、書く側はそうではない」― ショートショートは新一の代名詞となったが原稿料は安く、文壇での評価が高まることはなかった。それでも彼は企業のPR誌や週刊誌にひっぱり凧の人気作家となっていく。彼の作品は多くの教科書にも採用され、後の文庫ブームのときには少年少女読者がその人気を支えた。
たぶん自分も、SFとは意識しないで星新一を読んでいたこの世代に属していたと思うのだが、現実離れした奇想天外な発想を楽しく読んだ経験はSFへの入り口として申し分ないものだったと思う。ロケット、ロボット、タイムマシンが出てこなくてもSF。若いときにそういう想像力に自然に触れることができたのは幸運だった。
性描写、殺人描写をしない。時事風俗を描かない。前衛的手法を使わない(発想に飛躍があるので表現は抑える)。彼が自らに課していたショートショート執筆の三ヶ条である。本人にそういう意識はなかったようだが、この創作上の自己規制に親一の過去の「負の遺産」が表れているのではないかとの推察には、幼少期からの膨大な資料を粘り強く整理して大作家へのリスペクトを新たにした著者の真摯な取り組みが感じられた。

 筒井康隆が『ボッコちゃん』文庫版の解説で訴えようとしたのも、星作品にまともに対峙しようとしない文壇と世間への批判であった。あとにも先にも、この解説ほど作家・星新一に透徹した理解を示しつつ、かつ挑戦的な星論はない。新一から初めての文庫の解説者に指名された筒井は、代表作の解説を書かせてもらえるなんて大変な名誉だと思い、「これは書かないかんと思って書きました」と振り返る。


星新一はその名のとおり、日本SF揺籃期の‘スター’だった。日本SFの三巨頭、小松左京筒井康隆とも親しくつき合いながら、独自のスタイルでSFの門戸を広げた大立役者だった。実際、彼の支持者には小林信彦常盤新平荒俣宏らSF門外の者が多く、新潮はじめ一般出版社からの刊行が多い。
(昭和49年の星雲賞は長篇部門が小松左京日本沈没』、短篇が筒井康隆日本以外全部沈没』(…!)。「日本以外全部沈没」は冗談好きな新一が小松の『日本沈没』ヒット祝賀パーティーの場で発した放言から筒井が拝借したものだというのだから笑う)
ショートショートを書き続けながら、彼は父親の伝記も書いた。会社を継いだときにはわからなかったが、取材してみて初めて職業人としての父の素顔を知った。政治や社会性、時代性に無縁と思われがちな彼の作品だが、幼少時の原体験や両親の記憶は文章に、文体に、にじみ出ていなかっただろうか。
星新一ショートショート製造マシンではなかった。あらためてその作品を読めば、以前とは違う感慨を抱くことになりそうである。要するに、もう一度、星新一を読んでみようと思わせる。本評伝の最大の功績はそこにある。SFに青春を賭けた若者たちの群像劇としても魅力的だ。
彼にショートショートのリストをつくって累計本数を教えていたのは熱心なファンだった。1000ではなく1001篇をめざし、数本を一挙に仕上げて記念作品を決めなかったというのもこの人らしくて泣かせる。デビューから26年目のことだった。



宇宙塵」に『セキストラ』が掲載されたのが1957年。同じ頃の文壇に開高健大江健三郎が登場した。SF三巨頭のうち、残るは筒井康隆氏だけになってしまった。その筒井氏を支持したのが先日亡くなった丸谷才一さんだった。
今のうちに読んでおけ、という声が聞こえる。風化していくのは戦争体験だけではない。