福島正実 / 未踏の時代


福島正実 / 未踏の時代 日本SFを築いた男の回想録 / ハヤカワ文庫JA (320P) ・ 2009年(121021−1024)】



・内容
 1959年12月、早川書房から「SFマガジン」が創刊された。初代編集長は福島正実。それまで商業的に成功したことのなかったSFを日本に根づかせるため、彼の八面六臂の活躍がはじまる。アシモフ、クラーク、ハインラインに代表される海外のSF作家を紹介するとともに、小松左京筒井康隆光瀬龍などの“新人作家”を世に出し、SFのおもしろさ、その可能性を広く紹介してゆく……。SF黎明期における激闘の日々を綴る感動の回想録。 (単行本は1977年刊)


          


『戦後SF事件史』が日本SF史の概説だとしたら、『1001話をつくった人』はSFムーブメントの主人公のひとりを活写し、そして本書『未踏の時代』はそのムーブメントをつくり出し、牽引した‘影の主人公’の記録である。三冊とも50〜60年代のSF運動について詳説していて重なる部分も多いのだが、SFマガジン(以下SFM)創刊とその反響をまさに現場で肌で感じていた当事者の手になる本書は、とりわけ熱い鼓動が脈打っている。SFM初代編集長・福島正実(1929−1976)は、日本で初めてSFを仕事にした人でもある。言うまでもなく、「書く」だけでなく商売として「売る」ことも考えなければならなかった。
当時30歳の福島のSFM編集方針は、SFファンを読者対象にしないことだった。「SFファンのための雑誌しかできないようなら、最初から出さない方がいい」 一般読者にも読まれるSF誌にする。その決意は並々ならぬものだったが、迎合と妥協は彼の性格上もっとも嫌悪するところだった。
このとき福島正実が志向したSFのイメージが、大衆受けはするが科学性に乏しい娯楽作品だったなら、その後の日本SF界はどうなっていただろう。

 ぼくがSFに、後戻り不可能なところまでのめりこんだのは、おそらくこの時期だ。
 ぼくは、ぼく自身の犠牲において、SFを―少なくともSFへのファイデリティ(忠誠)を獲得したのだ。SFの問題を自分の問題とし、SFへの誤解や、無理解や、偏見や、不当な待遇を自分へのそれと感じ、それをはね返すために全力をつくす習性を身につけてしまったのである。


本書は1975年に始まったSFM連載をまとめた未完の回想録。七章、67年の回で終わっているのは、連載中に福島が47歳の若さで帰らぬ人となったためだ。
自分は福島正実が編集長だった頃のSFMは知らない。それよりも『夏への扉』や『幼年期の終り』の翻訳者として記憶している。巻末資料をたどってみると、この二冊は63、64年に相次いで刊行されている。SFMがようやく軌道に乗り始めたとはいえ、ほとんどワンマンで編集部を切り盛りしていた超多忙な日々の最中にあの二作は翻訳されていたのだった。
確たるマーケットはない。読者層も定かではない。SFはアブノーマルな趣味と蔑まれ、低俗な読み物と見なされていた時代に(クラークやハインラインなどほとんど誰も知らない時代に)、自らの手で訳して世に送り出した。この一点においてさえ自分には偉業と思われるのだが、これは彼の仕事のほんの一部なのである。
この人のSFに対する情熱と持論は、ほとんどそのまま自分のSFへの期待であり、自分がSFを好きな理由でもある。SFでしか書けない世界がある。SFでしか表現できない現実がある。これはSFとは何か、どうあるべきかを問い続けた強靱な言葉の魔力に満ちた本だった。  



分野を問わず、初めて輸入された海外文化が普及していく過程は、無理解と偏見との戦いから始まるのだろう。ジャンルは違うが『CG カー・グラフィック』誌の小林彰太郎、『Rockin' On』誌の渋谷陽一らもきっと福島と同じような蹉跌を味わいながら雑誌を出し続けたのだろう。エンスージアスティックな編集者が作った雑誌が、いつしかそのジャンルの代名詞になり、やがて文化の一部として現代に定着する。現在では計り知れないほど専門誌の役割は大きく使命感も強かった。また、読者も毎月の発売日を待ちこがれて、貪るように読んだ。情報が少なかった時代の幸福を思う。
読み、翻訳し、書き、批評し、編集する。若い有望な作家たちを発掘し、育て、叱咤した(彼らには一般文芸作家や推理作家のように経済的に報われる保証などなかったのだ)。SF軽視、蔑視のジャーナリズムに憶することなく反論し、ときに烈火のごとき怒りをストレートにぶちまけてSFを守ろうとした。たとえ相手が言論界に名の知れた知識人・文化人であろうと容赦がなかった。彼のエキセントリックな苦闘は結局、作家を鍛え、読者を育てることになったのだ。
この半世紀前の(…もう50年も前のことなのだ!)回想エッセイを読んでいて驚かされるのは、その言語感覚である。今でこそカタカナ英語は珍しくないが、60年代のこの当時にはさぞかし新鮮でスノッブにも感じられたことだろう。もしかしたら旧態然とした文壇ジャーナリズムからは「英語かぶれ」と反感を呼んだのかもしれない。

 この種の投書を掲載すると、ただちに、やはり投書者から、数多くの反論が寄せられた。そしてそれらの大部分は、決していわゆる〈左翼〉や〈革新〉の論客からのそれではなく、むしろ穏健な市民的知性の持ち主からのもので、客観的歴史的な立場から見たアメリカのエゴイズムや、東南アジアにおける力の戦略を非難しているものばかりだった。ぼくはそれらを読んで、SF読者の知的レヴェルの高さを、今さらのように再認識した気持を抱かされたものだった。


1965年暮れの誌上日記に福島は余生が少ない可能性をやや弱気な言葉で書いていて、80〜90年代は自分にとってはもう関係のない未来なのかもしれないと語っている。はっきりとは書いてないのだが、このときすでに肉体の異常が発見されていたのかもしれない。そして、直接の病名は何だったにせよ、過労が原因であったろうことは想像に難くない。ある意味で、福島正実はSFに殉じた、SF者として死んだ初めての日本人だったのだ。
SFをエンターテイメントとしてではなく、一つの思想哲学にまで高めようとして、自らの生き方にもそれを実践した。彼のような編集者がいたから、小松左京筒井康隆も進化をとげたのではないか。もしも福島正実がいなかったら、彼と彼のSFMがなかったら……という空想は、未だ日本SFに書かれざる最大テーマの一つのはずである。

  問われて名乗るもおこがましいが / 生まれは遠州浜松在
  十四の時から親にかくれ / 勘当承知のSF通い
  好きこそものの何とやら / 原書集めも五千冊
  七つの海に知らぬはねえ / 日本一の色男 伊藤典夫


本書で初めて知ったのだが、ブラッドベリの訳者、伊藤典夫さんは自分と同郷の浜松出身なのだった。しかも、浜松の紡績会社で働いていた浅倉久志さん(!)と知り合い意気投合したというのだから、のけぞる。 ここにも自分の知らないドラマがある!
初期の頃から小尾芙佐さんや深町真理子さんもSF界に近かったとのこと。日本SFはやっぱりスゴイのである!