小松左京セレクション


小松左京セレクション 1 日本 (東浩紀 編)/ 河出文庫 (512P) ・ 2011年11月(121025−1027)】

小松左京セレクション 2 未来 (東浩紀 編)/ 河出文庫 (512P) ・ 2012年 3月(121027−1030)】



・内容
 小松左京生誕八十年記念/追悼出版。代表的短篇、長篇の抜粋、エッセイ、論文を自在に編集し、SF作家であり思想家であった小松左京の新たな姿に迫る、画期的な傑作選。第一弾のテーマは「日本」。
 第二弾は「未来」。いまだに汲み尽くされていない、深く多面的な小松左京の「未来の思想」。「神への長い道」など名作短篇から論考、随筆、長篇抜粋まで重要なテクストを集め、その魅力を浮き彫りにする。


          


福島正実『未踏の時代』の中で個人的に最も興味深かったエピソードは、小松左京の初長篇刊行をめぐる‘事件’だった。翻訳中心だったSFシーンにいよいよ国内作家が台頭してきた1963、4年頃。念願の「日本SFシリーズ」刊行に向けて奔走していた福島にとって、小松の『復活の日』は最大の目玉となるはずだった。ところが、小松左京の第一長篇は早川書房と福島を出し抜く形で光文社から刊行された―。
それが『日本アパッチ族』。タイトルからして真っ先に連想されるのは開高健『日本三文オペラ』。大先生のエッセイにもときどき小松の名は出てきたから二人は親しかったのだろう。それもそのはず、開高健は1930年12月30日生、小松左京は1931年1月28日生。二人はわずか一月ちがいで同じ大阪に生まれていたのだった。
1959年『日本三文オペラ』が出て『日本アパッチ族』はその五年後。これはどう見ても開高先輩の作品にインスパイアされて書いたのだろうと思わないでいられないのだが、二人の関係、二つの作品の関連については福島の回想にも『戦後SF事件史』にも触れられていない。

 とりわけ新生代第四紀になって急速に増えはじめ、最近とみにその活動がさかんになり、竜の背をけずり、穴をうがって血を吸い、腹やのどや、柔らかい皮膚に無数の潰瘍やかさぶたをつくりはじめた二足の寄生生物は、必死の力をふりしぼって、蜘蛛の子を散らすように、死につつある宿主の体から逃れようとしていた。 ―竜の体のあちこちにつくったコロニーから、羽虫のような小さいものが数知れず空に飛びたち、寄生生物をぎっしりと腹にかかえた何万という乗り物が、海の上を、四方に逃れつつあった。

   ― 『日本沈没』 エピローグ 竜の死 から


この『小松左京セレクション 1』には『アパッチ族』の「まえがき」が収められている。ジャンジャン横町、城東線下の陸軍砲兵工廠跡地、鉄骨を笑う男たち。わずか2ページの文章だが、舞台は『三文オペラ』そのままのようである。終戦直後の無軌道なエネルギーの放埒と収縮を、小松左京はどう描いたのか。永らく絶版になっていたこの作品が近々復刊するとの噂を聞いたのは少し前だがどうなったのだろう。早く読みたいぞ!
昨年、小松の生誕八十周年を期に東浩紀が編んだアンソロジーは追悼作品集になってしまった。『地には平和を』『神への長い道』『時の顔』『物体O』などの傑作短篇と文明評論、エッセーに加え、『日本沈没』『復活の日』『果てしなき流れの果てに』からの名シーン抜粋も含む充実ぶり。各文には東の解題が附されている。
子どもの頃は‘ただのSF’として読んでいた小松左京。だが、彼の原点には十四、五歳で迎えた終戦時の、強烈な廃墟観があった。ここに収められている文明と未来を論じた文章からも、終戦と戦後再興のあいだの、すべてが無意味、無価値と化した広大な虚無空間から彼の未来観が始まっていることが窺える。



壮大なスケールの破滅ドラマと同時進行の等身大の人間模様。登場人物の口を借りて語られる宇宙、人類、歴史と未来への科学的思弁。SF設定をフル活用して描き出す人間存在。主人公がインテリばかりなのも、むかし小松左京を読んでいたときの感覚を思いださせる。
今回とりわけ楽しく読めたのが時代物の短篇『時の顔』と『お糸』。前者は四十世紀人が江戸時代に戻って二千年前の個人の謎を探るミステリ仕立て。後者は年頃の娘を主人公に江戸風俗と機械(からくり)文明を合成したスチームパンク的なユニークな作品(東の解説は「萌え」  )。重厚長大なイメージに、つい身構えてしまいがちな小松作品だが、こんな軽快な作品も書いていたのかと舌を巻いた。
彼の小説に描かれている時代を時系列にそって並びなおせば、二十二世紀にはこうなり、三十世紀にはこうなって、という明確なビジョンがあったのではないかと思われる。過去からの歴史の連続の先にあるものとしての未来。いきなり進化して様変わりした地球を空想しないのも小松左京らしさの一つなのかもしれない。

 しかし ―それにしても、われわれが全力をあげて闘うことは原理的に不可能だったでありましょうか? 人類がもっと早く、自己の存在のおかれた立場に目ざめ、常に災厄の規模を正確に評価するだけの知性を、全人類共通のものとして保持し、つねに全人類の共同戦線をはれるような体制を準備していたとしたら ―災厄に対する闘いもまた、ちがった形をとったのではないでしょうか?

   ― 『復活の日』 第四章 夏 から


むかし読んだことがあるものも初読のものも、テーマがちがいモチーフがちがい、書かれた年代がちがうものも、クオリティはまったく変わらない。ただ小松の文章を並べただけでは、このようにガイドとしても資料としても有用な、そして何より読みやすくまとまったアンソロジーとはならなかっただろう。東浩紀の編集の労と熱意は報われた。「文学」をテーマにしたもう一冊が準備されているらしいので、そちらも楽しみに待ちたい。
‘知の巨人’と謳われ文明批評家でもあった‘日本を沈没させた男’小松左京だが、その知見博識は徹底してSFを書くためのものだった。彼が知識人、文化人として言論界にその名を知られながらもSF者であり続けたのは不思議なことのようにも思える。『日本沈没』の後のどこかでSFを卒業していたとしてもおかしくはないのに(ジャンルを問わず、有名になると本業をすっぽかす、そういう例が多いではないか!)、あくまでもSF表現の場にとどまって活動した。‘頭でっかち’に見えるが、どこかに無邪気な純真なところがあったのだろうか。次回はそんな点にも注目しながら読んでみたい。
SFは文学である。それを確かめるには格好の作品集だ。