奥泉 光 / 虫樹音楽集


クワコー」とのギャップがすごそうなので、続けて読むのはやめておいた。
勝手にサブタイトルをつけるならば、「ダークサイド・オブ・奥泉光」、または「趣味と実益を兼ねた奥泉光教授のスタイリッシュなジャズ生活」といったところか。
こういうのも大好きである!



奥泉光 / 虫樹音楽集 / 集英社 (272P) ・ 2012年11月(121122-1126)】



・内容
 虫への〈変身〉を夢見た伝説のサックス奏者。彼の行方を追い求めた先に〈私〉が見たのは─。カフカ『変身』を通奏低音にして蠱惑的な魅力を放つ、音楽ミステリーの新しい挑戦。もう一つの代表作。


          


「すばる」に2006年から今年5月号まで断続的に不定期掲載された、伝説的日本人ジャズミュージシャンとカフカ『変身』をめぐる九篇からなる連作短篇集。語り手は大別すると、一人のジャズマンの消息を追う作家の「私」と、そうではないもの、ということになるか。
70年代ジャズにのめりこんだ「私」は、かつて‘イモナベ’と呼ばれるサックス奏者が奇矯なライブパフォーマンスを展開するのを目撃した。イモナベのアルバムやコンサートは「孵化」、「幼虫」、「変態」と題されていた。人知れず音楽シーンから姿を消したイモナベだが、「私」はジャズから逸脱した彼の演奏活動がカフカの『変身』にインスパイアされたものであったことに気づく。
「私」がイモナベに感じる奇縁を縦糸に、関係者の手記や音楽誌の資料記事、共演者らしき人物の作中小説(らしきもの)などが細い横糸として断片的に絡められていく。グレゴール・ザムザと虫とイモナベのフリーキーなセッション。いつしか「私」もそれに加わっていたのだろうか???

 変身ではなく変態。かつてイモナベから聞いたカフカの話を私は思いださないわけにはいかなかった。孵化して幼虫となったイモナベは、変態のときを待ってまどろみ、夢を見ているのではあるまいか。夢というのは、この場合、「気がかりな夢」であり、夢から覚めたときが変態のときに他ならない。洋服行商人グレゴール・ザムザがそうだったように!


謎に満ちたマイナー・ミュージシャンの行状と、もう一つ、太い骨格として提示されているのが「虫樹」という不思議な異様な木の存在。たとえば『星の王子様』にも出てくるアフリカの精霊樹バオバブを想起させもするのだが、「虫樹」は「宙樹」でもあって、アンテナとして翻訳装置としてこの木を介することで、70年代のアングラ・アートジャズを、ラリってるとしか思えない変態フリージャズを、宇宙との対話が可能なスピリチャルな言語に変換させる。虫樹は虫とジャズが交接するベッドなのである。
九篇中最も長い異色作「虫樹譚」は、もしかしてこれってモンジ…?(あるいはモンジの原型)と思わせる言文一致の文体はジャズのアドリブよろしく、というか例の若者言葉による締まりのないだらだらした一人語りの文章なのだが、およそ音楽と無関係そうな展開にいささかうんざりしかかるも、最後にこの木が出てきてSF的大逆転、E難度の着地が決まると、「ぐおおお、そうくるか奥泉光! もはや変態超えた!」と叫びたくなった。



人が虫になるカフカ『変身』。虫に変わるのは人間にとって進化なのか退化なのか?
実は本書のサブテキストというかアンチョコというかカンニングというか、自分にはすごい隠し球があったのだった。読んでいる途中にふと思いだして、自慢の、魔法の秘密の宝のライブラリー(押し入れ奥の本の箱詰め)を漁った。一月後の大掃除を度返しした大捜索の末にようやく発見した「すばる 2006年1月号」。本作第一話「川辺のザムザ」が掲載されているばかりか、奥泉光×いとうせいこう「新・文芸漫談」の第一回が掲載されていて、この回のネタがカフカ『変身』だったのである!
          

もちろんそこでは『変身』の解題が楽しく語られているのだけれど………、まだ『虫樹』には言及されていないけど、ああなるほど、そういうことでしたかということもサービス精神旺盛な奥泉教授は話してくれているのだった! それはここには書かないけど。

 〈虫樹〉から〈虫樹〉へ飛び回るザムザは音楽を奏でる。ザムザの音楽は、かつて彼が手にしたバスクラリネットと同じ深く艶のある黒い躯から溢れ出る。いまこの瞬間にもザムザの音楽は宇宙に響いている。光の疎らな宇宙の隅々にまで届いている。
 耳を澄ましてごらんよ。どう、聴こえないか?


最初の「川辺のザムザ」(2006)と最後の「川辺のザムザ再説」(2012)こそ揃えられているが、間の七篇は「すばる」掲載順に並んでいるわけではない。試しに発表順に読み直してもみたのだが、物語られている内容がそれでより整理されるということはなさそうだった。
ある不穏なイメージは維持されているものの、主人公を中心にすえた輪郭のはっきりした短篇集ではない。断片的だったり、まったく無関係のような一篇が挿まれたりして、九篇を通して読んで初めて立体的に立ち上がってくるものに胸がざわめく。いや、不確かな記憶によって暗示される実在の疑わしさに、というべきか。
本書の構成そのものが怪異なのだが、これはフリージャズ的なのだと強引に納得するしかないだろうか。現実と虚構の混濁、夢と記憶の錯綜によって不安が駆りたてられるシリアスな内容ではあるが、おそらく半分は音楽趣味で書いている著者にとっては、架空のジャズ批評やミュージシャン伝を書くのは愉快な作業だったろう。全9曲入りのLPレコードみたいな、またはアウトテイクやデモ音源を入れたブートレグみたいな小説集を目論んだのは明らかなのである。まったくどういう神経をしているのだと、イヒヒといやらしく笑うこの作家の鬱屈した暗黒面(腹黒さも含めて)をあらためて垣間見たような気がして、鳥肌が立った。
これは60年代後半から70年代に破滅的に生きてジャズに殉じたミュージシャンへのオマージュでもあるのだが、他人の熱狂を傍観するだけだった作家はせいぜい寂しく文学に殉ずるしかない。そういう卑屈さをこれっぽちも表さず作品化してしまうのがこの作家の図々しくてすごいところである。