小田雅久仁 / 本にだって雄と雌があります


本年ベストというかオールタイム・ベスト級の一冊!
こういう作品が芥川賞に選ばれればいいのに…… どうですか、奥泉先生?


《帯文より》
  ― どうかしてます。いい意味で。(岸本佐知子
    ― すでに古典の風格。殿堂入り確実!(大森望



【 小田雅久仁 / 本にだって雄と雌があります / 新潮社 (318P) ・ 2012年10月(121127-1203)】



・内容
 深井家には禁忌(タブー)があった。本棚の本の位置を決して変えてはいけない。九歳の少年が何気なくその掟を破ったとき、書物と書物とが交わって、新しい書物が生まれてしまった! 昭和の大阪で起こった幸福な奇跡を皮切りに、明治から現代、そして未来へ続く父子四代の悲劇&喜劇を饒舌に語りたおすマジックリアリズム長編。


          


本には相性がある。サルトルカミュは険悪な仲だったから『嘔吐』と『異邦人・壁』を並べておいても、そっぽを向いていつのまにか離れてしまう。ある夏の夜、小学生だった私は読みかけのエンデ『はてしない物語』をその隙間に突っこんで寝入ってしまった。翌朝、耳慣れない物音がして目が覚めた。頭上を一冊の書物が飛びまわっているではないか! 巣立ちしたての若鳥のごとく嬉々としてページをばさつかせて天井と壁の間を舞っている。ひっつかまえて表紙を見ると、『はてしなく壁に嘔吐する物語』という本だった……
本にだってオスとメスがある。好きあい惚れあう二冊がぴたりしっとり肌を寄せあえば、書棚をカタコトと鳴らして房事にも励むし、子だって産もうというものだ。ロカンタンとムルソーとバスチアンが組んずほぐれつ絡み悶えて『はてしなく壁に嘔吐する物語』は生まれたらしいのだが、はて、ではどれがオスでどれがメス? …というか、これって二冊じゃなくて三冊じゃん、しかも男同士だし。ボーイズラブの三角関係を腐女子用語で何というのだか知らないし知りたいとも思わないが、では攻めが誰で受けは誰だとか想像するだに嘔吐しそうである、などとあらぬ妄想をしている暇はない。本書にはこの手の与太話、法螺話、駄洒落、軽口、虚言妄言、冗談が連発満載なのだから。
本と本から生まれる‘幻書’と「しゃっくり」と耳がでかくて鼻が長い乗り物と深井家一族の血脈とをめぐる幻想奇譚の始まり始まり、というわけである。

 しかしもちろん書物に雌雄などあろうはずがない。雄本『鯨神』宇能鴻一郎著は絹糸きりきりと浮きたたせて大蛇の巣のごとく怒張する栞ひもを、情欲深き雌本『花芯』瀬戸内晴美著の淫液とろとろと潤った百八ページと百九ページのあいだにぐいぐいと差しいれてゆけば、いつの間にやらするすると帯も解けてカバーもはだけ、ついには赤肌色に火照る表紙もすっかり露わに…… などと子どもらしからぬ奇想に耽りはしなかったものの、すでにカブト虫だのクワガタ虫だのが入ったケースに鼻息荒く張りついて心ゆくまで交尾の実演を貪っていた私は、書物が交接に及ぶなどという妄言に惑わされはしなかった。


法律ではないし、社会一般的なルールともちがう、それぞれの家系の流儀みたいなものがある。「我が家では代々……」みたいな、盆と正月には必ず家族全員そろってどこそこにお詣りに行くとか、餅の焼き方や味噌汁の味に関する決まりごとのような、家ごとに違っていて、それぞれに尊重されている不文律がある。ここに書かれてあったのも、言ってみれば近所の深井さん一家の風習みたいなことだったような気がする。
政治学者だった深井與次郎とその妻ミキは毎日冗談を言い合うおしどり夫婦だった。二人が授かった四人の息子と娘。そして孫の私。與次郎は蔵書家だったが実は幻書蒐集家で、広大な屋敷に溢れんばかりの書物に囲まれて育った私がその祖父の生涯を記述していく。
「幻書」という小道具をはずしてしまえば、ここには一つ屋根の下に三代四代の家族が団欒した懐かしき日本の古き佳き光景が立ち表れる。逆に、その家系図の枠組みのある部分に幻書をはめこんでみたらこんな物語になりましたとさ、というお話なのである。ちょっと大袈裟な物言いかもしれないが、これはアニミズムめいた日本人固有の死生観をこちょこちょくすぐる「私の物語」であり「あなたの物語」でもあるのだ。だから存分に笑わされながらも我知らず涙がこぼれたりもしたのだろう。



この祖父母にしてこの孫あり。軽妙というか軽率というか、冗談混じりなのか、ただ冗談好きなだけなのか、語り口にも遺伝子の継承は感じられる。300ページのうち、200ページぐらいはジョーク絡みで、よくもこれだけ書き連ねたものだと呆れる。「信頼できない語り手」という言葉が脳裏をかすめるのだが、それよりは冗談が過ぎて「頼りない語り手」という方が相応しいか。
それでも、その冗舌な軽口にまぎれて、「始めから終わりまでおんなじ顔で笑えるという以上にましな人生はない」「何べん死んでもいいから、何べんでも生まれてきたい」「人が本から知識を得るのではなく、本が人を喰う」「人は一生を終えると一冊の本になって天に上る」…等々、ふと胸をつく箴言めいた一句が随所に挿まれていて、そのたびに間抜けた笑みを面に貼りつかせたまま妙にしんみりとさせられたのだ。
本と本から幻書が産まれるように、人と人から子どもは生まれてくるのだなあ…なんてぼんやり考えていたのだが、いうまでもなく喩えが逆転してしまっているのだから自分も阿呆である。
読んでいるうちに、なぜ語り手がこれを書いているのかが不思議に思えてくるのだが、それも最後に巧みに収束させる。子孫の私もご先祖様になる。古代から未来まで、深井さん宅から宇宙までの時空を越えた悠久の「はてしない物語」としての円環は閉じられる。そのあたりもお見事! (実際、読み終えて拍手、それから手を合わせた)

 夜空に溶けこんだ生き物がかっと目を見ひらいたような異様に明るい満月だった。その月にまとわりつくように、何百何千もの黒い影となった書物の群れが低空をびっしりと埋めつくしていた。夜が攪拌され、その底に沈んでいた澱が舞いあがって一つの意志を持つようになったかのごとく、右へうねり、左へうねり、こちらへうねり、向こうへうねり、夜空をぐわりぐわりと波打たせている。みんなが私に続いて縁側へ集まってきて、幻書たちの円舞が繰りひろげられる空を見あげた。


この本がすごいのは読者を笑わせ泣かせるからではない。ここだけの話だが、この『本にだって雄と雌があります』も希覯幻書の一冊であるらしく、飛ぶのである(ただし初版に限る)。本当かよ?と思ってためしに放り上げてみたら途端に威勢良く羽ばたき始めて、あっという間に窓を破って南の空に消えてしまった。だから現在自分の手元にない。仕方がないのでもう一冊買ってこようと思う。
要するに、逃げられないように両手でしっかり持って読まないといけませんよということなのだが、本書を読みだせば冒頭一行目からその騙りの話術に首ったけになること間違いないので余計なことを書いたかもしれない。第一、本好きは本を投げたり踏んだりしませんよね。  
でも、投げずとも本は飛ぶ。南方の秘境にあるという人類すべての図書館か、宇宙の涯の書架をめざして、ほら、今日も一冊また一冊、上空を渡っていくあれは鳥ではないし飛行機ではないしデビルマンでもない、本なのだ。誰もがいつかは本に化身する。私がいかに生き、いかに死んだかがあますことなく記された一冊の本になるのなら、せめて少しでもましな本に生まれ変わりたいものではないか。
これはドラマ化も映画化もされない、本でしか、言葉でしか語れない物語である。科学や経済用語では解説不能な世界の秘密を描いた、実に本らしい本だった。いつか書かれる私の本。 つまりそれこそはホントの本という 
こういう作品にめぐりあうために自分は読書をしているのだという喜びがこみあげてくる。と同時に、ただ著者の個人的創造力の産物というのではなく、世の中には数々の名作良書があって、それらの合いの子としてこういう本が生まれるべくして生まれてくるのだとも。そういう意味で、やはりこれはまがう方なき「幻書」なのである。