宮下奈都 / 終わらない歌


宮下奈都さんの本はいつもA書店(アマゾンではない)で買う。中型のいわゆる新刊書店で自宅から最寄りということもあるが、いつからか新作が刊行されるたびに著者直筆メッセージが文芸コーナー入り口に飾られるようになったのだ。
今回も店員さんの手書きポップと一緒に宮下さんの色紙があった。若者ならすかさず携帯とかスマホで写真に撮っちゃうのだろうが、自分はそんなことはしない。断っておくが、「若くないから」ではない。欲しいのは写真じゃなく、‘それ’なのだ。ちょっとドキドキしながら触ってみたりして毎回「盗んだろか」と思うが、そんなことはしない。
(それに、著者直々のメッセージを載せてしまったら、それ以上何を言えばいいのだ!)



【 宮下奈都 / 終わらない歌 / 実業之日本社 (244P) ・ 2012年11月(121204-1207)】



・内容
 卒業生を送る会の合唱から3年、少女たちは二十歳になった。御木元玲は音大に進学したが、自分の歌に価値を見いだせなくて、もがいている。ミュージカル女優をめざす原千夏が舞台の真ん中に立てる日は、まだ少し先みたいだ…。ぐるぐる、ぐるぐる。道に迷っている彼女たちを待つのは、どんな未来なんだろう。


          


なぜだか読んでいて落ち着かなかった。ページに集中していない。こたつのヒーターが熱かったり弱かったり、足に絡まるコードがうるさかったり。そばにあった新聞チラシが気になりだして、いったん本を置いて一枚ずつ見入ったり…(近頃は犬用のクリスマスケーキやおせちまであるのだ!)。こたつに潜ったまま一人芝居モードに入っていたのは、本能的に直視したくない何かをかぎつけていたからか。今回の‘宮下マジック’が自分の内部で炸裂するのを怖れたからだろうか。
二年前の『よろこびの歌』の続篇。『紡』で「シオンの娘」を読んでいたから、だいたいの空気はわかっている。短めのセンテンスを重ねてたたみかけるような書き方が目立つような気はするけど、基本的にはいつもの‘宮下節’だ。
高校を卒業して二年が過ぎる頃。同級生はばらばらになって、それぞれに迷っている。みんな自立の壁にぶつかってもがいている。二十歳前後とはそういう時期だ。しかしこの作品では「そういうものだ」という大人ぶった‘まとめ’を拒む。

 歌に感情をうまく乗せられないことで悩んでいたのが嘘のようだった。伝えたい気持を乗せる乗り物として、歌が軽やかに走った。歌自身の持つ力と、私の備わる力、それが共鳴して聴く人の心に届くのだと思う。こんな簡単なことが普段はどうしてできないのだろう。伝える気持ちか、歌う相手か。いつも感情移入できるとは限らない歌を、顔の見えない不特定多数のために歌う場合はどうすればいいんだろう。


どうして自分がこの作品を前にしてとまどったのか、よくわからない。年長者の余裕をかまして距離をおいて見守っていられるはずだったのではないか。「青くさい」の一言で簡単に突き放してしまうこともできたはずで、そうしないようになるべく丁寧に読もうと心がけてもいた。
自分もそうだったなあと笑って振り返られればいいけど、では大人になりかけの中途半端な自分にどう対処していたのかはさっぱり思い出せない。独りよがりで自意識過剰だったあの頃を一抹の気恥ずかしさとともに思い出しはしても。ただぐずぐずと月日の過ぎるのにまかせて年月を重ねて今まで来たようにも思える。
はたして自分は玲や千夏たちと同じようにまっすぐに悩んでいただろうか? 先輩面して若輩者の四苦八苦と笑って見ていられなくなって胸が苦しかったのではないか? 彼女らの眩しさに目をそむけたくなったのではないか?
だからこれは若い読者には同世代のリアルな物語として共感を持って受け入れられるのかもしれないが、若くない読者にはけっこう残酷なのかもしれない。老眼ゆえに。そうまとめようとする自分が嫌なのだが。



うどん屋の娘がふとしたことから歌にめざめ、ミュージカルの舞台に立つ日を夢見てバイトと稽古に明け暮れる日々を送っている。音大声楽科に進学したお嬢様育ちは自分が一番になれないことに気づく。自己否定から肯定へと向かう筋書きはよくある青春音楽ストーリーなのに、感触はどこかちがっている。
六篇からなるこの連作短篇集の中には登場人物が泣く場面がいくつかある。しかし、そこはそれほど感傷的なドラマとしては描かれない。むしろ、出口を見つけようとして彼女らが必死に迷い自問を繰り返す「ぐるぐる」感が身にしみて切ない。
宮下奈都といえば、もう毎度おなじみともいっていいかもしれないその作風はすぐに想像できる。けして要領のよくない主人公が遠回りをして一歩を踏み出す。その小さな一歩までには長い「ぐるぐる」は付き物である。
逆に想像してみると、いかに登場人物を迷わせ、ふらつきよろめかせながら進むべき道に導くかが作者の仕事であり手腕ということになる。悩みが深刻であればあるほど、横道に逸れれば逸れるほど、まっすぐ踏み出す一歩はかけがえのない貴重なものとなる。言ってみれば「ぐるぐる生産者」であり、「ぐるぐる解放者」でもある。その一人芝居めく「ぐるぐる」の鮮度が抜群にみずみずしいのが宮下奈都さんなのだろう。

 「世の中そんなに甘くないとかってさ、もうほんっとにつまらない台詞だと思うよ」


吉野弘『自分自身に』はこう始まる― 他人を励ますことはできても 自分を励ますことは難しい   自分が「まだひらく花」だと思えるのなら、そう思っていればいい、という詩だ。この小説には、友人を励ますことは自分を鼓舞することだというようなことが書いてある。そして、これから開く花に必要なのは水だ。
読む前に自分の中に引いていたのはジェネレーションギャップの予防線だったのかもしれない。それが全然的外れもいいところだったために、ふいに宮下爆弾の直撃をくらって、そのうちの何発かは無防備だった心のずっと奥の方にまで到達し、じゅわっと沁みこんだのだ。それで不覚にもぐるぐるに濡らされて無様にたじろいだのだろう。(そう、‘マジック’は‘ミサイル’に変わったのだ、なんてまとめてみたくなるが、まとめません!)
著者は作品の中にブルーハーツを使うことにいくばくかの不安があったのではないかと思う。今の若者は知らないだろうが、もう二十年以上前のブルーハーツの絶大な存在感を知っている者には‘禁じ手’であり‘踏み絵’のようにも思われたかもしれない。
でも、それはしょせん語り手の都合にすぎない。導火線。起爆剤。玲と千夏が要請したのだから、玲があそこであれをいきなり歌ったのはまったく自然で痛快に正しかった。なかなかの破壊力だったではないか、あれ以外に何があったろう? ブルーハーツブルーハーツとして使ったのだから、あれで良かったのだ。