村雲 司 / 阿武隈共和国独立宣言


12月8日夜、NHKスペシャル・シリーズ東日本大震災「救えなかった命 〜双葉病院 50人の死〜」。
福島第一原発から4.5キロの双葉病院(大熊町)で起きた悲劇を検証する(原発事故直後の大混乱の中、多くの寝たきり高齢者を医療設備が整わない状態で移送しなければならなかった)。現在も寒空の下に無数の移動ベッドが放置されたままの病院駐車場の光景がその日のパニックを物語る。番組は医療・介護施設の緊急避難態勢の整備を訴える内容。「救う」「救えない」以前に、そもそも奪われる必要のなかった命についての追及は甘かったと思う。 


10日、大熊町警戒区域が再編され、高線量の帰還困難区域が居住地域の96%に及んだ。



【 村雲 司 / 阿武隈共和国独立宣言 / 現代書館 (152P) ・ 2012年 7月(121208-1210)】



・内容
 阿武隈村の人々が、長年培った独自ブランドの米や牛豚鶏が都会の消費者に認知され、ようやく落ち着いた生活を手にした矢先に起きた福島第一原発事故…。村の老人たちにとって、手塩に掛けた耕作地・家畜を置き去りにすることは死よりも苦しい選択であった。彼らはついに「阿武隈共和国」として独立することを決意し、東京有楽町・外国特派員協会での記者会見に臨む。「自由や、自由や、我汝と死せん」と謳った福島県出身の自由民権運動家・苅宿仲衛。その言葉を現代に甦らせるため、老人たちはついに決起した! 「国が故郷を棄てろと強要するのなら、私たちは国を棄て、最期までこの地で生き抜きたい」


          


正直に書けば、小説作品として全体的な出来は、うーん…?、というものだった。著者はプロの小説家ではないらしいので、その点は差し引いての感想。
昭和二十年生まれの‘終戦っ子’の語り手「私」の自意識が目立ちすぎて鼻白むところが多い。主張と運動それ自体には共感しても、一緒に行動するのは遠慮したい、個人的にはそう感じる人物像だった。普天間基地移設問題、イラク反戦運動から60年代末の新宿フォーク集会まで、「私」のノスタルジックな回想がフクシマに結びつけて語られるのだが、あなたの昔話はいいからさ、と言いたくなる。

 故郷の山河を棄てろと国が強要するなら、故郷と国を天秤にかけて、俺たちは国を棄ててもいいとさえ思っています。棄てなければならないような土地にしてしまったのは誰なのだと叫びながら、何としてもその土地で、私は生きられる限り生き抜きたいと、決意しております。この土地を棄てるというなら、一緒に棄てられてやろうと思います。しかし、ただ無言のまま見棄てられ、死んでいくのは嫌なのであります。


だから読みどころは「私」のモノローグ以外、分量にして全体の三分の一ほど。すなわち帰還困難区域に指定された阿武隈村(架空)の独立宣言そのものと、土地を奪われた村民の抗議の主張である。
放射能が汚したのは環境だけではない。汚染された土は何代にも渡って堆肥を鋤きこんで育ててきた土壌であり、先祖の汗と涙がしみこんだものだ。田畑を放棄し、手塩にかけて育てた家畜は殺処分せよと言われる。永年の歴史がたった一回の原発事故で葬られる不条理への痛憤。
テレビ報道で被爆地域の農民、漁民のインタビューは見たことがあるが、こうして小説の中に取りこまれていると、現実とはまた違った迫力を感じさせるのに気づく。流れていく映像と、固着する文字の違いをあらためて思った。



国に棄てられる前に、自分たちから国を棄てる。ただし、将来のある若者は参加させない。65歳以上の高齢者だけで独立し、自給自足、地産地消で生きられるだけ生きて、自分たちが土地とともに滅んでいくさまを世界に発信する……
ある意味でやむにやまれぬ‘特攻精神’のようであり、一方ではユートピアの実現のようでもある。政府が表面上は認めようとしないマイノリティの被差別感情を逆手に取って「生きる」真価をつきつける様は悲壮であると同時に痛快でもあった。
実際のところ独立とまでいかなくとも、過疎が進んで孤立しつつある地域は現実的にこうなっていくのではないか。そして小さな狭いコミュニティで生きていけるならば本来はそれで良いはずなのだとも心の片隅に感じる。壊れたといっては買い、新しいのが出たといっては買い直す。工業製品を買い足すためだけに働いているようにも思える人生。(無駄にエネルギーを使わせる)余分なものに取り囲まれて、何でも商売絡みの巨大システムのために自分も生かされているという漠とした虚しさもあらためて感じさせられる。

 「東電の人間に殺せるものなら殺せと言いたいのよ。あなたたちが犯したことの結末は自分でつけなさいって言いたいわ。包丁でも鉈でも用意するから、ここへ来てやってみなさいってね。あの牛たちの目を見つめながら殺せるのかって」
 「そうなのです。殺処分の書類に判をついた役人や政治家もここに来て、自ら手を下せるかと問いたいですね。判をつくとは、そういうことだと首根っこを掴んで言ってやりたいですよ」


もちろん井上ひさし吉里吉里人』も思い出したのだが、SFの愉悦にも満ちたあの傑作と比べるのは酷というものだろう。こちらはより直情的だがユーモアに欠けている。老人たちの憤怒をどこまでも反逆的に描こうとする姿勢は残念。現実に近いノンフィクション的なパートは説得力があるのに、それを覆う小説の枠の部分、「語り手」に魅力が乏しいのが大きな減点である。
だが、いつか書かれて当然の本でもあった。「脱・原発」、「卒・原発」というのなら、それが実現された未来を魅力的に描いた読み物がもっとあってしかるべきだ。本来ならば職業作家がこういう物語を世に問わねばならないのではないか。世論を導くような作品はこれから出てくるのだろうか。そのときに必要なのは‘SF的発想’だろう。
今週日曜の衆院選挙の争点に原発の是非はあっても「復興」はあまり目立たない。多額の復興予算を被災地以外の無関係な事業に流しておいて復興増税だという。詐欺であり裏切りであり犯罪的なのに、被災者にどの面さげて「清き一票」を訴えているのだろう。それでも大衆の怒りは表現に結びつかない。震災以後も変な国だと思うことばかりだが、そのもどかしさを小説という形でたたきつけようとした著者の意図は痛いほどに理解できる。

この独立宣言が発表されるのは来年の三月十一日である。