P・D・ジェイムズ / 高慢と偏見、そして殺人


今年夏の刊行からずっと読むのをためらっているのが高野史緒さんの『カラマーゾフの妹』。出てすぐに飛びつかなければそのままスルーになるのがだいたいいつもの自分のパターンだが…
これには飛びついた。原版の記憶があやふやな「カラマーゾフ」よりは、新しい「高慢と偏見」ということである。



【 P・D・ジェイムズ / 高慢と偏見、そして殺人 / 早川書房 (348P) ・ 2012年11月(121215-1220)】

DEATH COMES TO PEMBERLEY by P.D.JAMES 2011
訳:羽田詩津子



・内容
 ロマンス小説の古典『高慢と偏見』の続篇に、ミステリの巨匠P・D・ジェイムズが挑む! ― 紆余曲折の末にエリザベスとダーシーが結婚してから六年。二人が住むペンバリー館では平和な日々が続いていた。だが嵐の夜、一台の馬車が森から屋敷へ向けて暴走してきた。馬車に乗っていたエリザベスの妹リディアは、半狂乱で助けを求める。家人が森へ駆けつけるとそこには無惨な死体と、そのかたわらで放心状態のリディアの夫ウィッカムが……殺人容疑で逮捕されるウィッカム。そして、事件は一族の人々を巻き込んで法廷へ!


          


ダーシーとエリザベスが結婚して六年、子どもにも恵まれ、二人が平穏に暮らすペンバリーの敷地で殺人事件が起きた。容疑者は、よりによってあの忌まわしきウィッカム……!
なるほどねえ、という展開。リジー(エリザベス)とダーシーのじれったいロマンスの裏で同時進行していたベネット家の末娘リディアとウィッカムの駆け落ち騒動が、再びペンバリーに暗い影を落とす。ダーシーの領地へは出入り禁止ではあるものの、ウィッカムは義理の兄弟。フーテンの寅さんを持ち出すまでもなく、一族の厄介者は決まって忘れた頃に現れるものだが、まるでこの作品のためにウィッカムとリディアは(オリジナル版で)ああいう形で結婚していたのかと思えるほど。だからこの作品の影の立役者はウィッカムである。

 子どもの頃からリディアはエリザベスが嫌いだったし、これほどかけ離れた性格の人間同士では、共感を抱くことも、親密な姉妹らしい愛情を感じることもありえなかった。すぐに羽目をはずし、奔放で、言葉とふるまいが下品で、行儀よくさせようとする周囲の試みをことごとく無視するリディアは、ベネット姉妹の上の二人にとってずっと厄介者だった。


高慢と偏見』の続篇ということだが、趣はまったく別の作品。もともとはロングボーンのベネット家が主な舞台で、ペンバリー館はリジーが旅のついでに一度立ち寄っただけだったが、今作ではその広大で豪壮なお屋敷がメイン。何より「ダーシー夫人」エリザベスが主人公ではないのが最大の相違点。敷地内の森で事件は起こり、主に行動するのは男たちである。
それでも三人称の語りはJ・オースティンを彷彿とさせ、話の間に間にベネット家とダーシー一族の人間関係が伏線として織りこまれていて(原作にあった細かいエピソードが回想されたりもする)、「続篇」はけして誇大な宣伝文句ではない。
当然のことながらベネット家の者もダーシー家の者も原作の登場人物がそのまま出てくるのだが、実際には著者は別人なのであって、しかもこの間には二百年もの隔たりがあるのだ(来年あたり、『高慢と偏見』二百周年とかのイベントがありそうな予感)。『ユー・ガット・メール』でメグ・ライアンが『高慢と偏見』を二百回読んだというシーンがあったが、おそらくこの著者はそれ以上に読みこんで完璧に例の人物相関図が脳に刻みこまれていて、ほとんどJ・オースティンみたいな文章を再現しているのに驚く(たぶん翻訳ではわからないこだわりが原文にはもっとあるはず)。他人が創造した人物像をパスティーシュでも模倣でもなく、続きとして引き受けて自分のもののように書いてしまう。そこには自分の意のままにならない制約がたくさんあったと思うのだが、まったく自然なものとして成り立っているのだからスゴイ。



今作では『高慢と偏見』には登場しないダーシー家の使用人たちが重要な役割を与えられている。名士でもあるダーシーは判事の役職も担っている設定で、警察司法関係の友人も新たに多く登場する。
事件そのものは単純な構造の殺人事件なのだが、ダーシーとウィッカムの過去の醜聞絡みの確執をはじめとして、当事者の背景にある隠された人間関係が捜査の障壁になる。ジョージアナ(ダーシー妹)の結婚相手や森のコテージに住む使用人家族の事情など、怪しい要素がいくつか提示され、それらの糸がもつれていく。で、それをたぐっていくと、どれにもウィッカムが一枚噛んでいるのがわかってきて、ダーシーならずとも舌打ちしたくなるのである。
冷静に振り返ってみると、ウィッカムはリディアとの結婚前にエリザベスにもジョージアナにも‘唾をつけて’いたのであって(そんな下品には書いてないが)、ふつうなら「全女性の敵」と後ろ指さされてもおかしくない男のはずだ。なのに名作の続篇にこうしてしゃしゃり出てくるのが許されるのだから 男としてはうらやましいかぎりの 奇特な輩である。『高慢と偏見』の支持者はほとんどが女性だと思われるが、世界中の彼女たちがダーシーの引き立て役以上の存在価値をウィッカムに見出しているのだとすれば、女というのもわけのわからん連中だと思うのである。

 ウィッカムは前々から気分屋だったが、今、ダーシーの目の前にはハンサムで自信にあふれ、悪名を不名誉とみなすのではなくうれしがるような、かつてのウィッカムがいた。


ストーリーとしては始めに殺人事件があって、ダーシーが第一発見者となってウィッカムが容疑者として拘束され、裁判によって真相が明らかになるというだけだ。裁判では明かされない秘密がたくさんあって、ダーシーにとっては公にしたくない情報もあって、むしろそっちの方が面白いと感じるのは昔も今も変わらぬゴシップ好きな大衆の習性で、もちろん自分もその中の一人なわけだ。単純な話がこれだけ長々とした作品になっているのは、ひとえに悠長な『高慢と偏見』的な語り口による(笑)
だから個人的には『高慢と偏見』の世界を再確認するのが楽しかったというのが本音。ところどころで『ジェイン・エア』やマキューアン『贖罪』との記憶の混同が発見され、『高慢と偏見とゾンビ』がいかに強烈な作品だったかも思い出した(このミステリで少林寺拳法使いのリジーが暴れまくったらさぞかし痛快で楽しいだろうに!)
ミステリとしてどうこうではなく『高慢と偏見』の亜流としては一級品であることは確かだろう。あの作品がいかに影響力を及ぼし、読み続けられているかが何となくわかるような気がする。そしてこれによって『高慢と偏見』の寿命がまたまた伸びたような気もする。
ただ一点、リジーが賢き「ダーシー夫人」以上の存在感を発揮する場面がないのが残念だった。