ユーゴー / レ・ミゼラブル


最近やっと彼女ができた会社の後輩が、今度映画に行くことになってと上機嫌で訊いてきた。「レ・ミゼラブルと大奥とエヴァンゲリオンとどれがいいですかねー?」
その前に選択肢がおかしくないかと思ったが、黙って「大奥」を薦めておいた。
たとえ二人がうまくいかなくなったとしても、それは「大奥」のせいではないし、ましてや「大奥」を薦めた自分のせいでは断じてない。



ヴィクトル・ユーゴー / レ・ミゼラブル / 岩波少年文庫 (上345P、下374P) ・ 2001年(121227-1230) 】


編訳:豊島与志雄



・内容
 ひときれのパンを盗んだために、19年間もの監獄生活を送ることになったジャン・ヴァルジャンの波瀾に満ちた生涯を描く。19世紀前半の激動の時代に生きる人びとの群像を描く大パノラマ『レ・ミゼラブル』の少年少女版。中学以上。


          


例によって「読んでから観る」ことにする。これを厳格に適用すると「読まなければ観てはいけない」のであって、そのために見逃した映画はけっこうある。たかが趣味についての個人ルールなのに、我ながらとてもめんどくさい。
さて、「レ・ミゼラブル」。家にある古い岩波文庫は全4巻(豊島与志雄訳)。新潮文庫は5巻組み。この十二月、映画公開に合わせて全5巻の筑摩文庫版と角川からも新版が出たらしい。
どれが良いのだろうか。せっかくなら新訳で読みたいところだが、どうしようか。他にも読書予定の本はたくさんあるから、あまり時間をかけたくないのも本音。角川文庫のは上下巻ということでダイジェストみたいだが、それもありかなー、でもやっぱり全巻読破しなければ…………、なんてうだうだ迷っている間に何でもいいからさっさと読め!
ということで結局セレクトしたのは岩波少年文庫版の上下二巻。べつにズルしようとしたわけではない、と思う。

 その土地ではこの子のことを、ヒバリと呼んでいた。あだ名を好む世のなかの人は、この小さな子にそういう名をつけて、喜んだ。小鳥くらいの大きさで、ふるえながら毎朝、その家でも、また村でも、いちばん早く起きて、夜の明けないうちに往来や畑に出ていたからである。
 ただ、このあわれなヒバリは、けっして歌わなかった。


ああ、懐かしい! 世界名作劇場に出てくる薄幸の主人公の「可哀想」というしかないイメージ。長らく記憶の表面から消えかけていた「ジャン・ヴァルジャン物語」、「あゝ無情」のあのムードが息を吹き返す…… そうだった、そうだったと、暗い重苦しい内容にもかかわらず、昔読んだときの感覚が思い出されてきてワクワクが止まらない。
実際、不幸エピソードのオンパレードで悲劇的基調ではあるものの、この小説は上げたり下げたりのジェットコースター的なエンターテイメント性も兼ね備えていたのだ。コゼットを救い出したジャン・ヴァルジャンが修道院に落ち着く上巻ラストですでにしてお腹いっぱいな感じだったのだが、まだ半分、下巻が残っていてもテンションは全然落ちなかった。
ジャン・ヴァルジャンの物語に焦点を絞って、ワーテルロー後の政治状況や当時のパリ市街の説明箇所などは省かれた「少年文庫版」だからそれも可能だったのだと思う。少年少女向けだから、落ちぶれたコゼットの母ファンティーヌがどうなったかやパリの浮浪児たちの話はカットされていたが、ストーリーに差し障りはなかった。岩波や新潮版ではこんなにすらすら進めなかっただろう。



名場面、名エピソード満載で、現代小説ならこの中の一つか二つのエピソードだけで楽々と長篇が一本書かれそうである。
特に自分が好きな場面を挙げておこう。コゼットが森に水汲みに行かされる場面。コゼットに送金するためにファンティーヌが自分の髪を売り、歯を売るところ。マリユスがコゼット見たさに毎日公園を行ったり来たりする場面(風のいたずらで偶然見えたコゼットのふくらはぎに欲情する……‘ふくらはぎ’でだ!) そしてマリユスがつづった愛の詩、というかラブレターみたいなの。ジャン・ヴァルジャンが子どもの頃にコゼットに着せた服や靴を一つずつ広げて別れを覚悟する場面。
思いつくままに書いてみたのだけれど、考えてみると、これらは三十年も前に初めて読んだときに記憶に残ったはずの場面でもあった。マリユスのラブレターについては完全に消去してあった自分の高校時代の忌まわしき恥ずかしエピソードを思い出して愕然としておののいてしまったのだが、それについては触れまい。本書の感想からかけ離れてしまうから。
とうに大人になったというのに、まったく自分は変わっていないことを喜ぶべきか恥ずべきか。もしかして自分はろくに成長していないのではないかと疑えるようになったのなら、もう黄昏ということなのだろう。もう一度、ふくらはぎを見ただけで眠れなくなるほど興奮したいものである。

 「おとうさま、すこし向こうの方へ歩いていってみましょうか」
 マリユスが少しも自分の方へやってこないのを見て、彼女は自分から彼の方へ出かけていった。まことの恋の最初の兆しは、青年にとっては臆病であり、若い女にとっては大胆さである。
 その日、コゼットのまなざしはマリユスを狂わしくさせ、マリユスの視線はコゼットの心をふるわせ、マリユスは信念をえて帰ってゆき、コゼットは不安を抱いて帰っていった。その日から、二人はたがいに慕いあった。
 


コゼットのふくらはぎか…… 映画にその重要な場面はあるのだろうか? 楽しみである。(←そこ?)
現代の視点からするとこの物語は、すれちがいとめぐりあいを繰り返す大河ドラマっぽい展開で、甘々なメロドラマのようでもある。偶然の要素が強く、不死身のジャン・ヴァルジャンはリアリティの点で首を傾げたくなる箇所もあった。しかし、十九世紀にこれだけ人道主義を全面に押し出しながら、なおかつロマンスあり事件あり革命闘争ありアクションありの読み物は他にはなかったのだ。もっと言えば、この作品はあらゆる娯楽小説の元祖であり典型といえるものなのである。その下敷きにあるのは文豪ユゴー前近代的な社会悪への厳しい視線だ。

本書は1953年刊の旧「ジャン・ヴァルジャン物語」を2001年に新版として改題したもの。新たに附された鹿島茂(おっと…!)の解説文の最後には「面白くてためになる」本と書かれていた。ひと言で言ってしまえば、そういうことだ。自分が言っても説得力はないが、鹿島先生がそうおっしゃるのだから、絶対にそうなのである。
岩波少年文庫、良いなあ! 来年は他の名作もこれで読んでみようか、全然OKじゃん、と思う年末であった。
さあ、これで堂々と映画を観に行ける!