イレーヌ・ネミロフスキー / フランス組曲

【 イレーヌ・ネミロフスキー / フランス組曲 / 白水社 (566P) ・ 2012年10月(130411-0416) 】

訳:野崎歓、平岡敦



・内容
 1940年初夏、ドイツ軍の進撃を控え、首都パリの人々は大挙して南へと避難した。このフランス近代史上、最大の屈辱として記憶される「大脱出」(エクソダス)を舞台に、極限状態で露わとなる市井の人々の性を複線的かつ重層的に描いた第一部「六月の嵐」。ドイツ占領下のブルゴーニュの田舎町を舞台に、留守を守る女たちと魅惑的な征服者たちの危うい交流を描く第二部「ドルチェ」。動と静、都会と地方、対照的な枠組みの中で展開する珠玉の群像劇が、たがいに響き合い絡み合う。


          


本文の一節を抜き出してこの原文は何語かと問われたら、迷うことなくフランス語と答えられそうである。フランス語のあの丸くて滑らかな語感と柔らかな質感がそのまま流麗に翻訳されていて、読んでいて、ちょっと酔いそうになる。一・二部合わせて五十余りの各章それぞれが独立した掌篇としても完璧な出来映え。ずっと読んでいたい、浸っていたい、という気にさせてくれる。
この作品の著者は1942年の7月、(ナチスによって、ではなく)フランス人憲兵に逮捕され、アウシュビッツで死んだ。彼女が逮捕の直前まで執筆に没頭していたという本作は、1940年6月のパリ陥落とその後のドイツ占領下のフランスの田舎町を舞台にしている。ということは、ほとんど現実と同時進行で書いていたということになる。ノンフィクションかと見まがうリアリティと緊迫感はさもありなん。だが、この群像劇の異様な完成度の高さはどういうことか。夫と二人の娘と暮らしていた彼女自身も敗戦の混乱状況にいたはずだが、降りかかった災難をここまで突き放して透徹した目で書けるものだろうか。

 結局のところ、人はただ自分自身の気持ちにしたがって、まわりの世界を判断する。吝嗇漢は私欲で動く者しか、好色漢は欲望に捕らわれた者しか見てないのである。アンジェリエ夫人にとってドイツ兵はひとりの人間ではなく、残虐と邪悪、憎悪の化身だった。まさか別の見方をする者がいるはずない……。リュシルがドイツ兵に恋するなど、彼女には想像もつかなかった。


第二次大戦ドキュメンタリーフィルムの「パリ陥落」。凱旋門に立ちパリ市街を睥睨するヒトラーの映像は日本人の自分でさえ違和感がある。
その直前、ドイツ軍の侵攻を恐れたパリ市民は一斉に地方へと脱出した。乗せられるだけの家財を屋根に山積みし、鳥籠までくくりつけた車で出発した。わけもわからず着の身着のまま徒歩で飛び出した人の群れが街道を埋めていた。重いトランクを引きずり子どもの手を引き、子どもは山羊を引いたり猫や鶏を抱いていたりした。パニック状態でパリを後にした人々の多くはどこという宛てもなく、ただ南へ南へと下っていったのだった。
そんな群衆の中の幾組かのグループの様子を交互に描写する第一部〈六月の嵐〉。ある者は階級の特権意識にしがみつこうとし、ある者は狡賢く立ち回って欠乏している食糧やガソリンを手に入れようとする。混沌の中で理性を保てる者と保てない者がいる。名士は愚痴混じりにこう吐き捨てる―「いやはや!」。命を落とす者もいるが、彼等は爆撃や銃撃で死ぬのではない。
著者は冷静に群衆の中の個人を観察し、端正な筆致で小さなエピソードを重ねていく。住み処を失った市民にとっては今日の夕食と寝床こそが最大の関心事であり、国や社会体制には無関心なものだという皮肉っぽい目線で右往左往する人々が描かれ、それは悲劇のようにも喜劇のようにも見えるのだった。



第二部〈ドルチェ〉はドイツ兵が駐留することになった小さな田舎町での物語。実のところ、ドイツ軍が来ても住民の日常生活はさほど乱されはしなかった。町のいたる所に赤い鉤十字が旗めき、「禁止」と大書された紙が貼られ、緑色の軍服があちこちに目につく以外は。
主不在の若い嫁と老母の二人だけで暮らすブルジョア家庭にドイツ人兵士がやって来て部屋を借りる。静まりかえった屋敷に軍靴の音だけが響く。息を潜める二人。その若い将校は教養のある紳士的な人物だった。姑は無愛想を貫き嫌悪感を隠さないが、嫁はその‘男’に興味を持ち、次第に好意を抱くようになる。
一つ屋根の下のこの三人の緊張関係が見事に描出されているのだが、特に主人公である嫁・リュシルのモノローグに戦時下の複雑な市民感情が代弁される。「永遠に敵」「同じ人間」「個人と社会」… 矛盾した感情が渦巻く葛藤となり、懊悩するリュシルは自制心と官能の波間に揺れる。フランスとドイツの国家の関係はフランス人とドイツ人の個人的な関係まで規定するのか。戦場で男たちが殺し合うのとは別の戦争状態が個人の内面にもあることをまざまざと見せつけられる。
ロバート・キャパ撮影の有名なパリ解放(1944)の写真がある。

          

様々な矛盾が凝縮した一枚だと思うのだが、丸坊主にされ晒し者にされているこの女は、この小説の中にいたかもしれないのである。
一・二部を通じて語られる戦争の怖さ。それは醜かったり愚かだったりの真実がむきだしになるからである。たとえ現代のわれわれが本性を隠して生きているのだとしても、それはそれで平時の証ではないのかとも思うのである。

 だれもが知るように、人間とは複雑な存在だ。いくつにも分裂していて、ときには思いがけないものが潜んでいる。けれども人の本質が見えるには、戦争という時代、大きな激動の時代が必要なのだろう。それはもっとも情熱を掻き立て、もっとも恐ろしい光景(スペクタクル)だ。もっとも恐ろしいというのは、より真実の姿だから。海を知っていると自負するには、穏やかなときだけでなく嵐の海も見なければならない。嵐のなかで人間を観察した者だけが、人間の何たるかを知りえるのだ。


著者はさらに続篇を書き継いで全五部での完結を構想していた。第一部のばらばらな登場人物たちが互いにどこかですれちがい交錯し、かすかに関わりあっていく展開で、この続きが読めないのは残念というほかない。というか、本好きとしては悔しい。「邪魔しやがって」と怒りたくなる。二部のfinで十分に深い余韻があったのだけれど、物語的にはこれからがいいところなのである。名ヒロインになりそうな女がいたし、絶対このあとにもっとドラマチックな展開が待っていたはずなのに! (個人的にはルイーズがどうなるのか知りたい。誰か続きを書いてくれないか?)
娘に託されたトランクの底に隠されていた本作原稿が日の目を見たのは2004年、終戦から実に60年以上が経過したあとだった。物語とともにこの本が背負った運命に声を失うのだが、しかし、もしもこの作品が終戦直後に刊行されていたら、誇り高きフランス人は素直に受け容れただろうか? ナチスの軍人はみな残忍で冷酷だというイメージが支配的な時世に(その方がフランスには都合が良かった)本書は許されただろうか? さらに、著者が(親独政権下だったとはいえ)フランス人の手によって強制収容所に送られて絶命した事実を‘戦勝国’フランスは認めただろうか?
本書が半世紀以上を経て出版されたのは、記憶と記録が濾過され薄まるだけの時間が必要だったのだろう。
それは翻訳で読むわれわれにも言えることで、半世紀も前の日本語だったら全然ちがう感触だったのではないか。現代的に洗練された日本語訳の美しい文芸作品として、娯楽の一つとして読める行幸に感謝したい。第一部と二部とで訳者がちがうのに、まったくそれを意識させない。お二人の素晴らしい仕事は著者の魂を継いだということか。フランス翻訳の名品を読むたびにいつも思うのだ、まったくこの国の仏文学者ときたら……、と。