C.ジューディージェイ / ロベルト・デュラン "石の拳" 一代記


最近ボクシングは全然見てないのに、ボクシングの本は読んでいる。
これは百田尚樹ファイティング原田より、ずっと良かった!



【 クリスチャン・ジューディージェイ / ロベルト・デュラン "石の拳" 一代記 / 白夜書房 (533P) ・ 2013年 3月(130511-0518) 】


“HANDS of STONE”The Life and Legend of ROBERTO DURAN by Christian Giudice 2006
訳:杉浦大介



・内容
 ハングリーな生い立ちからプロボクシングの頂点を極め、50歳まで闘い続けたリングキャリアは実に119戦。ライト級史上最強と称され、以降ウェルター級、スーパーウェルター級、ミドル級の計4階級で世界タイトルを獲得したパナマ最大の英雄、ロベルト・デュラン。日本のガッツ石松を沈め、プエルトリコのライバル、エステバン・デ・ヘススとは3度にわたる激闘。そしてこれを軸に映画化(公開時期未定)されることも決まっている、シュガー・レイ・レナードとの連戦―キャリアのハイライトともいえる初戦の快勝と、5カ月後の再戦で引き起こした前代未聞の「ノー・マス事件」等々、HANDS of STONE=石の拳を持つ奔放な野生児の半生を描いた、ボクシングファン必読の伝記です。


          


「石の拳一代記」― 思わず手に取ってしまう表紙カバーとナイスなタイトル。白夜書房・刊というのもそそる。期待を胸に読み始めると、プロローグで早くも涙腺が緩んで、これは良いぞと直感がひらめいた。著者の執筆動機が明確で、四階級制覇したパナマの英雄、パウンド・フォー・パウンド、ロベルト・デュランへの愛情に充ち満ちていた。
数えはしなかったけれど、16歳でのプロデビュー戦から50歳でリングを降りるまで、彼のほぼ全ての対戦が書いてあったのではないか。もちろんその中には世界タイトルを懸けたビッグマッチの数々やライバルたちとの因縁の対決も含まれているのだけれど、たとえば(多くのボクシングファンが考えるように)シュガー・レイ・レナードを破り、五ヶ月後の再戦に敗れた二戦だけでデュランのボクサーとしての真価を早計に定めようとはしない態度に好感を持ったのだった。
略歴によるとアメリカ人の著者は1974年生まれ。当時すでにロベルト・デュランはライト級に無敵の絶対王者として君臨していて、リアルタイムでは現役時代の彼をほとんど見てはいないはずだ。なのに、アメリカ人ボクサーではなくパナマの生ける伝説を追うことに労を惜しんでいないのは文面から良く伝わってきた。

 デュランは「黄金のスプーンで食事をすくってもらうように」甘やかされて育つ子供たちに、少年時代から我慢がならなかった。自分にはレナードのようにテレビ映えするスター性がないことに気づいてはいたが、一方でレナードには苦難を乗り越える中で得られるタフネスが欠如していると疑っていた。このアメリカ人は“本物の男”ではなく、“商品”であり、メディアによって製造された見かけ倒し。その偽造品の欠陥を、世間に暴露してやりたかった。


ひたすらリング上の攻防に紙は使われている。この本のどこを開いても、たいていデュランが誰かと戦っている場面に出くわす。三十年以上のプロボクサー人生を遥か上空から俯瞰して、上りと頂点と下りの曲線を栄光と転落の物語にまとめるのはそう難しくないだろう。そうした小説的技法を持ちこまずに、ただただボクシングをして生きるボクサーの姿を描き出す。
いくつかの重要な転換点となる試合も119分の1として必要以上にドラマ仕立てしない。デュランと戦った有名選手も無名選手も等しく扱う。それゆえ、全体の印象はやや平板で盛り上がりに欠けるきらいはあったものの、ノンフィクションとしての信頼性を疑う余地はなかった。
誰にでも五十年もの年月を振り返ってもみれば浮き沈みがあり、良い時もあれば悪い時もあって今があるという実感があるはずだ。そしてそれはロベルト・デュランのような怪物的存在であっても同じであるらしいのが、本書を読んでいていちばん嬉しかったりするのである。
ほとんどのボクサーはまだまだ働き盛りの年齢に引退して、まったく別の第二の人生を生きねばならない。つい先月にも、元世界王者が運転トラブルからの暴力沙汰で逮捕される悲しいニュースがあったばかりだ(世界チャンピオンになった三十代の男が焼肉屋をやっているのは、やはりどこか間違っていると思えて仕方がないのだが…)。 
それを思えば、‘一人の労働者として’拳闘士としてのほぼ定年までを務めたデュランという男は幸せだったのではないかと思えてくるのだ。痛いし稼げない。常に死の恐怖と隣りあわせ。たいがいはどこかの時点で現実に目ざめて「こんな馬鹿馬鹿しいことやってられるか!」とグラブを叩きつけたくなるものだろう。



もちろんデュランの人生は彼がリングに沈めた何十人もの男たちの上にある。彼にめった打ちにされて(「鼻から蛇口をひねったように血が流れ出て」)病院送りにされ、再起不能になったり、引退に追いこまれたボクサーは少なくないのだが、不思議なことに引退後の彼らはデュランと戦ったことを生涯誇りにし、デュランのファンになっていたりするのであった。
そして、デュラン自身もいつまでも勝者であり続けたわけではない。スポーツの、あるいは人生における残酷な現実にして悲しき真実「自分がやっていたことを、いつか自分がやられる日がくる」 ―その日が来ても、デュランはボクシングを止めなかった。
‘石の拳’を浴びてグローブを置いたボクサーの一人に小林弘がいる。1971年、世界Jライト級の王座を失った小林はその三ヶ月後、パナマに招かれた。試合に明け暮れて行けなかった新婚旅行も兼ねての旅だった。空港に着くと小林夫妻だけが機内に待たされた。タラップを降りるとそこには赤い絨毯が敷かれていて、前チャンピオンとして歓待されたのだった。
その小林の相手が当時売り出し中、弱冠二十歳のデュランだった。小林vsデュラン戦の模様は本書では短くしか触れられていないが、 管淳一『1967クロスカウンター』 では終章に詳しく書かれている。7ラウンドKO。しかし、試合前に小林は妻にそっと「7回に寝るから」と耳打ちしていたのだった。
白夜書房vs太田出版。この二冊、並べてみたくなった。

          

…… 何だかスゴいことになってないか? 今夜、四十年の時を越えて本だらけのこの部屋の30cm四方のリングで、日本の‘雑草’とパナマの‘石の拳’が再びグラブを交えたのである!

 一方、ウェルター級新王者は6月24日にパナマに降り立ち、約70万人のファンが彼の姿を一目でも見ようと空港に殺到した。この日はパナマでは“ロベルト・デュランの日”に制定されることも決まった。「みんなにわかってほしいことがある」とチャンピオンベルトを指差しながらデュランは話し始めた。
「これは俺のものじゃなく、あなたのものだ。俺をサポートしてくれた人たち、俺が愛しているみんなのものなんだ」
 しかし、群衆はデュランが指差している場所を勘違いし、笑い転げた。


70年代のライト級をデュランは席巻した。勇気ある(そしてユニークな)挑戦者の一人としてガッツ石松のことも書かれていて、「ボクシングのおかげで自分の人生は380度変わった」という彼らしいコメントには笑ったのだが、一方のデュランは生まれついてのファイターだった。あらためてその戦歴を見ると、世界チャンピオンになってからも年間六〜八試合をこなしているのに驚く。
もはやライト級に相手がいなくなった彼は強豪揃いの中量級に戦場を移し、レナードに挑み、ハグラーやハーンズとも戦った。有力プロモーターが牛耳る興行がラスベガス中心に移り、クローズド・サーキットとペイ・パー・ビューなどのアメリカ式放映権ビジネスによってファイトマネーが巨額に膨れあがった80年代。「ダンスやサーカスのような」ボクサーが売れる時代に、正面から打ち合うのを好んだデュランは古典的ボクサーとして風化しつつあったものの、しぶとく戦い続けたのだった。
こんなボクサーはもう二度と現れないのだろうなと思いながらデュランの写真を眺めていて、顔つきがだぶって見えてくるボクサーが一人だけいることに気づいた。フィリピンの「国民の拳」、マニー・パッキャオである。