鏑木 毅 / アルプスを越えろ!激走100マイル


人物伝シリーズ、日本代表も一人。



【 鏑木毅 / アルプスを越えろ!激走100マイル ―世界一過酷なトレイルラン / 新潮社 (207P) ・ 2013年 3月(130525-0528)】



・内容
 目指すゴールは160キロ先! 挑む「登り」の総計はエベレスト以上!! ― 不眠不休は当たり前、己の極限に挑む世界最高峰レースがいま始まる。モンブラン山峰、富士山麓に立ち向かう地獄の苦しみは、いつしか最高の喜びに変わってゆく―。完走した者だけが得られる新境地、「鉄の心」の秘密とは。四十歳を過ぎてなお国内第一人者であり続けるランナーが、初めて明かした「究極のマラソン」の世界!


          


三年ほど前にNHKのドキュメンタリー「激走!モンブラン」を見た。世の中にはとんでもないレースがあるものだと呆れたのだが、一方、きちんと整えられた檜舞台で競い合うオリンピックがなんだか不自然なものに感じられて仕方がなかった。
ヨーロッパ・アルプスの最高峰モンブランを一周するという壮大にして壮絶なレースが「ウルトラトレイル・デュ・モンブラン(UTMB)」。番組が取材したその大会で上位入賞を果たした日本人ランナーが鏑木毅(かぶらき・つよし)さんだった。
モンブランの麓、フランス側のシャモニーを出発し、イタリアとスイス国境を通過して険しい登山道を走り続け、再びシャモニーに戻ってくる。その距離100マイル(約166km)を上位選手は二十数時間で駆け抜ける(制限時間は48時間)。
大会初日は日没時にスタート、いきなりヘッドライトを頼りに山道を行くナイト・レースが始まる。救護車は伴走しない(できない)。近くに病院などない。つまり、生命の危険度はより高く、自己責任に委ねられる。開催されるのは夏とはいえ、夜間は氷点下まで気温が下がることも珍しくない。悪天候に見舞われることも多く、吹雪くときすらある。そんな状況下の山岳路を走るなんて危ないと思う。そもそも舗装路を160キロ走るのだってふつうはやらないのに、わざわざ危険なことをやっている。「まったく…」と絶句、でも、わくわくしていた。

 序盤で早くも「走馬灯」を映し出した脳はさらに利口なもので、ここから事故の‘保身’のためとばかり、合理的な計算をしはじめたのでした。
「あの先の崖から飛び降りて、大怪我でもすれば、この地獄から逃れられるし、リタイアの立派な理由がたつじゃないか」
「あの岩に頭を強打させて、頭蓋骨にヒビでも入れば、仕方ないなと思ってくれるだろう」
 苦しさのあまりにこんなことを考えはじめていました。


当然、なぜそんなことをするのか?という疑問はわく。と同時に、なんとなくその答はわかるような気がしていたし、理解できそうな予感もあったのだが、所詮それはビール片手にくつろいでテレビを見ている者の好奇心にすぎない。当事者によるその答が書かれているのが本書、というわけである。
掲載されているコース高低図を見ると、見事に平らな所はなく、ルートは常に登りか下りである。それも厳しい登りと厳しい下りばかりである。累積標高差9400メートルとはどれぐらいなのか、想像もつかないが。漆黒の闇の中、不安定な山道を一人っきりで何時間も走り続ける感覚とはどのようなものか。肉体と精神の極限状態が笑っちゃうぐらいにあっさりと書いてある。
痛くなるのは足ばかりではない。激しい呼吸を長時間続けるせいで胸の筋肉が苦しくなるといわれても笑うしかない。文字どおり「足が棒に」なって、屈伸運動をするとそのまま後ろにひっくり返っちゃうとか、休憩地点で腰を下ろした途端に眠りに落ちるとか、そういうずっこけぶりは自分も身に覚えがあるので、つい「あー、それわかる」と言いそうになる。
まめにエネルギーと水分補給をしなければならないのに、レースに集中しすぎて補給どころか呼吸すら忘れているとか。周りの木々の幹に漢字が見えてくるとか。アルプス山中でレースをしているのに、いま走っているのは何か用事があるからだと思いこみはじめるとか。経験者でなければ語れない恐ろしい話が笑い話のごとくに語られる。
そんな苦闘の末にたどり着く先には「何か」があり、それは中毒のようなものらしい。そういえば、カメラに映し出された疲労と苦痛に歪んだランナーの表情は、それでもどこかうっすらと不敵な笑みを浮かべているように見えたものだ。



鏑木さんがトレイルランニング(山岳マラソン)を始めたのは28歳のときだった。群馬県庁に勤めながら週末ランナーとして各地の登山レースに出場していた。陸上長距離選手としては芽が出なかったが、新たに出会ったこの競技にのめりこみ、好成績を収めるようになる。そして実力が認められ、UTMBに招待されたのが2007年、38歳のときだった。その後2012年まで六回連続出場し、2011年大会では三位を記録している。
後半は、UTMBのような大会を日本でも開きたいと、富士山を一周する100マイルレース「ウルトラトレイル・マウントフジ(UTMF)」を企画、開催にこぎつけるまでの奮闘記。第一線の現役アスリートがその競技の魅力を知ってもらおうと自ら大会を立ち上げる。ありそうで、聞いたことのない話である。それだけなら魅力的なストーリーなのだが、実際にはロマンのかけらもない、頭を抱えてしまうような現実の壁が立ちはだかっていたのだった。
富士山周辺の土地登記者は国と静岡、山梨両県の各自治体、それに民間個人と様々で、山麓には自衛隊の演習場もある。それが世界遺産登録への障壁の一つにもなっていたのだが、富士山一周マラソンを運営するとなると、すべての地権者と関係団体の認可を得なければならない。役所への申請、警察への届け、地元自治会や農林団体、猟友会、野鳥の会等への説明… その苦労にはUTMBを走るのとはまた別の困難が容易に想像されて、同情したのであった。ただ、鏑木さんが元公務員だったので、そうした事務折衝ができたというのも事実だろう。

 こんなに疲れたこと、これまで一度だってなかったよと独り言をいいながらも、今までに味わったことのない不思議な陶酔感に包まれもしていました。
 スイスの村々では村人がちょっと休んでいけとばかりに椅子を差しだしたり、時にはワイングラスを差しだしてくれたりと、ありがたい応援が続きます。苦しい状況のなかで一瞬、心がなごみ、ふっと気持ちが楽になるのです。
 すると「これは単なるレースじゃない。自分を試す旅なのかもしれない」と思えたのでした。


たとえばツール・ド・フランスやパリ・ダカール・ラリーなどの長距離耐久系のレースは若さとか勢いだけではなかなか勝てないようになっているが、UTMBを最高峰とするトレイルランニングにもそういう性格がある。たとえコースを間違えて時間をロスしたり、体調不良のために途中で休養したりしても、それで終わりではなく、まだ十分に挽回のチャンスはある。鏑木さんがUTMBを「懐が深く温かいレース」と記しているのは、ただ順位や記録のみが評価される大会ではないということを身をもって知っているからだ。
鏑木さんが初参加した2007年大会の優勝者はイタリア人のマルコ・オルモ選手だった。彼は前年に続いての二連覇だったのだが、驚くなかれ、58歳と59歳での連続優勝だったのである。いやはや!と言いたくなる。この大会が競技力、走力や体力以外の何かを必要とする大会であることを誇り、雄弁に物語る事実である。
アルプスの絶景を行くUTMBは旅であり冒険でもある。最も試されるのは勇気と自己管理能力であり、忍耐力も大事だが、その先への想像力が何にも勝る原動力となるらしい。競技というよりはむしろ、闘牛といっしょに群衆が走るスペインの祭りとか、イギリスの坂道を転げ落ちる大会とか、トマトだかオレンジだかをぶつけあうイタリアの収穫祭とか、そういうイベントに近いようにも感じられるのだった。
正直に言えば、読んでいて鏑木さんが少し羨ましくなった。もう十年若ければ自分もチャレンジしたのに…と歯ぎしりしたのだ。  というか、自分がオオカミだった頃にはアルプスの100キロや200キロ 

もう一つ、UTMBという鉄人、あるいは哲人レースを読んで考えずにいられなかったのは、かつて迫害されたユダヤ人が着の身着のまま厳寒のアルプスを越えて聖地エルサレムをめざした歴史があるということである。力尽きて行き倒れた者、家族を見捨てて地中海までたどり着いた者… その苦難のドラマを思えば、一つの競技としてモンブランを一周するくらいどうということはないであろうと思えなくないこともなくはないのである。
そうか、トレイルランニング用のシューズっていうものがあるのか…… いや、やらないけどさ。