山口由美 / ユージン・スミス 水俣に捧げた写真家の1100日

【 山口由美 / ユージン・スミス 水俣に捧げた写真家の1100日 / 小学館 (237P) ・ 2013年 4月(130529-0601)】



・内容
 二十世紀を代表する写真家ユージン・スミス(1918-1978)の代表作であり、人生最後のプロジェクトでもあったのが、写真集『MINAMATA』(1975年)。なかでも有名なのが、胎児性水俣病患者の娘をいとおしむように抱く母の姿をとらえた「入浴する智子と母」の一枚です。この写真は世界中に衝撃を与え、水俣の公害の実態を海外に知らしめる役割を果たしました。 独特の撮影手法や患者との交流、写真にかける情熱、情の深い人柄など、これまで語られることのなかったユージン・スミスの「水俣」がよみがえります。2012年第19回小学館ノンフィクション大賞受賞作品。


          


「楽園への歩み」「カントリードクター」「慈悲の人 アルベルト・シュヴァイツァー」などの写真作品で知られるユージン・スミスが来日して水俣を撮った。撮影に同行した当時の妻アイリーンとアシスタントを務めた石川武志の回想を手がかりに、1971年から74年まで三年に及んだ滞在の足跡を追う。写真集『MINAMATA』に収められた写真はいかに撮影されたのか。被写体となった患者関係者の証言も集めて、四十年前の‘ユージン・スミスの水俣’を再現する。
スミスの作風はモデルとの信頼関係を築いたうえで近くから自然な表情を写しとる。入念な暗室作業でモノクロプリントに定着させた一連の写真に詩文やエッセイを添えてドキュメントとしてまとめる。‘決定的’な一枚を狙うのではなく、組写真全体のイメージでテーマを表現するというスタイルだったと思う。
彼の撮影スタイルを思わせるコメントが本文中にもあった。「写真を撮っている時間は少なかった」とモデルとなった子の親は語っている。充分に時間をかけて被写体との距離を縮め、カメラを意識させなくなるまではシャッターを押さない。逆に言えば、自分のイメージのためにコミュニケーションに割くそういう時間こそ、ユージン・スミスのような写真家にとっては貴重だったのだろうし、水俣に住みこんで撮影に三年を費やしたのにも納得がいくのだった。

 石川は言う。
「それまで水俣を撮っていた写真家とユージンが決定的に違っていた点、それは水俣病の酷さだけでなく、その子がどれほど家族の愛情に包まれているかとか、そうしたことを表現しようとしたことだと思うんです。そのための手段としてのお風呂だった。ユージン・スミスが水俣に来ていなかったら、報道の写真は、もっと荒っぽくていいという考えのままだったと思う。つまり、どれだけ凄い被写体が撮れるか、ということ。でも、ユージンは違った」


政府厚生省が水俣病を正式に公害病認定したのが1968年(昭和43)。石牟礼道子『苦界浄土』が1969年。発生の公式確認から十年以上も経ってやっと世間にこの公害の実態が知られるようになって、1970年代初めの水俣には多くのカメラが入っていたことだろう。認定と慰謝料請求訴訟、チッソへの抗議活動が広がり、九州の片田舎で起こった奇病騒動の目撃者となるべく入れ替わり立ち替わりやってくる報道機関の多くが単発的な、興味本位の取材しかしなかったのは想像に難くない。
それでも、水俣の患者家族は、東京や大阪の記者が来れば悲痛な声を届けてほしいと願って協力を惜しまなかったのだろう。長いあいだ市や県や国に実情を訴えても聞いてもらえなかったのだから。そんな時代の水俣に、ユージン・スミスは三年もいたのだ。



ユージン・スミスも「ライフ」に作品を発表して名をなした作家だった。皮肉なことをいえば、なぜ彼はもっと早く水俣に来なかったのか、と思う。どうして彼はベトナムに行かずに水俣に来たのかという疑問も感じたのだが、そういうことは書かれていなかった。
フォトグラファーとしての実像があまり見えてこなかったのも、少しもの足りなさを感じた。たとえば、彼が愛用したカメラは何だったのか。レンズは何を使っていたか。カメラとレンズへのこだわりは写真家の重要な個性の一部のはずだが(目の代わりなのだから)、撮影機材についてはまったく触れられていない。フィルムについても、暗室ではD-76の二倍希釈で現像していたと記述してあることから、おそらくトライXのロールを使っていたのだろうと推察されるが、リバーサルやカラーネガを使うことはなかったのだろうか。大物写真家が滞在しているのだから日本のメーカーのサポートもあったのではないかと思うのだが、ミノルタの名がわずかに数回出てくるだけである。
「LIFE」誌が健在だった頃のフォトジャーナリズム。「マグナム」という写真家集団。スミス以外の水俣を撮影したカメラマン。自ら現像作業を行ってオリジナルプリントをつくっていた時代の写真への造詣をあまり感じられなかったのが残念だ。

 いずれにしても、「入浴する智子と母」は「封印」されていた。
 もちろん、それが意図的な「封印」なのか、もともとCCPの資料に含まれていなかったのか、何らかの事情で「そこにない」状況になったのか、本当の理由はわからない。しかし、現実として、「入浴する智子と母」は、新たな出版や展示だけでなく、残したネガのベタ焼きやワークプリントを「調査する」ことも出来ない状況にあったのである。
 「封印」された写真である現実を突きつけられた瞬間だった。


たとえばアラーキーの「さっちん」や土門拳筑豊のこどもたち」、ダイアン・アーバスのフリークスの写真などもそうだが、‘リアリズム’と称して市井の人々の写真を公開することは現代ではほぼ不可能だろう。80年代まではカメラ誌の口絵やフォトコンテストにも無許可のストリートスナップが掲載されるのは珍しくなかったが、現在では風景と静物、イメージ作品がメインである。フォトジャーナリズムという語もほとんど死語である。
本書でもっとも興味深かったのは、教科書に載ることもあった、『MINAMATA』の中でも最も有名な作品が現在では公開されていないという事実である。「この子は宝子」と言ったあの母と娘の写真である。著作権そのものはスミス側にあるものの、「決定権」はモデル側(水俣病患者の両親)に譲渡された。96年に開催された「水俣展」の広告にその有名な写真が使われ、配られたチラシやチケットの半券が捨てられ、雑踏の中で人々に踏まれているのを知った両親はいたたまれなくなって使用中止を訴えたのだという。
表現の自由と個人情報。撮る側と写される側だけの問題ではない。大量生産・大量消費の時代に、水俣を象徴する一葉の写真が、よりによって「水俣展」の舞台で大量に複製されてゴミと化した。その構造はかつて水俣で起こったことと本質的には変わっていないということか。本来ならばこのテーマだけで一冊書くべきだろうと自分などは思ってしまったのだが。また、この当時にはすでに亡くなっていた撮影者ユージン・スミスがその事実を知ったらどう感じただろう、何を言っただろうとも考えさせられたのだった。(温和な彼だったが、写真のレイアウトや見せ方には厳しいこだわりを見せたという)
本書には原田正純さんの著書からの引用も複数あるのだが、原田さんはかつてこう語った―「弱い方に立つしかない」と。 ユージン・スミスはボランティアに来たのではない。プロフェッショナルな仕事のために来日した。世界に先駆けて(他の写真家より先に)水俣の実態を知らしめたいという野心とも無縁ではなかっただろう。ただし、彼の仕事は弱者の視点に立つことだった。
本書はユージンと同じ目線で書かれただろうか。「封印」された写真を、ここに載せてみせるというくらいの熱意はあったか。興味深く読めたのは事実だが、もう一歩踏みこんで書いてほしかったというのが素直な感想。