石牟礼道子 / 椿の海の記

石牟礼道子 / 椿の海の記 / 河出文庫 (320P) ・ 2013年 4月(130602-0607)】



・内容
 はだしで盲目で、心もおかしくなって、さまよってゆくおもかさま。四歳のみっちんは、その手をしっかりと握り、甘やかな記憶の海を漂う。失われてしまったふるさと水俣の豊饒な風景、「水銀漬」にされて「生き埋め」にされた壮大な魂の世界が、いま甦る。『苦海浄土』の著者の卓越した叙情性、類い希な表現力が溢れる傑作。


          


全十一章。一章ごとにため息をついた。人と自然の濃密で豊潤な関わりが書いてあるということは、もちろん文体も濃密で豊潤で、それを読むこちらは少しばかりの緊張と集中力を要し、しばしば呼吸を忘れていたりしていたのである。これは……、と感嘆しながらも、後の句が継げない。半分は見事な文芸に触れる悦びであるのはまちがいないのだが、残り半分の興奮が何とも説明しがたいのだ。ただただ「いやはや!」と恐れ入りつつ、いったん本を伏せて、熱を醒ましにコーヒーを淹れに立つ、そんな幾晩かを今週はくり返したのだった。
 『苦界浄土』  がそうだったように、会話部分はすべて熊本か天草の方言である。自分に縁のない九州弁がこれほど親しく感じられるのはなぜか。一見しただけではすんなりと理解できない言い回しに立ち止まって、声に出して読んでみる。何度か読み返して推測変換する作業も楽しい。生々しい肉声が記されているということは、文体も生々しい迫力に富んでいるということだが、この作品の魅力はただのリアリズムに留まらない。古来からの言い伝え、習わし、しきたり、そういうものをよすがに成り立っていた暮らしは、幻妖にして幽玄な異世界と隣り合っていたのだった。

 「おもかさま、気分どげんでございまっしゅ」
 お湯の足し係で、柄杓を持って立っているこちらもほっとして、春乃の口まねをしてそのようにいう。
 「あい、あい」
 おもかさまが二度返事をするときは、孫への専用の返事なのである。拭きあげてやって、ようやく柔らかになった首すじを傾けて、おもかさまが幽かな含み笑いをしたりすれば、わたしはいそいそ櫛箱をかかえ出し、例の宝ものの、「末広」のあねさまたちからもらい集めた、水色の手絡などとりひろげ、まだ乾ききらぬおもかさまの洗い髪によりそって背中にまわる。おもかさまは、うしろ探りに手をまわしてきて、孫の全身を撫でてたしかめ、きげんが良い。
 「ほほほ、また嫁御さんつくりかえ」
 「あい、よか嫁御さんの出来なはります」


昭和初期の水俣。両親と祖父母と暮らす白石家の長女、四歳の「みっちん」の目をとおして語られる、季節と自然に土着した素朴な暮らし。両親の愛情を一身に浴びて育っているこの童女には感覚過剰なところがあって、ときどき彼女が属する共同体からはみ出してしまう。子どもながらに世界の広さ、というよりは底知れぬ深さを直感していて、親の手をすり抜けて、地元の土俗神とその眷族の住まわる野山に遊び、迷う。
天と地。陰と陽。現世とあの世。海の涯て、山の涯て。自分は三千世界に生まれた白狐の仔であり、人間の子にうまく化身できているだろうかと真剣に思い悩む「みっちん」は、此方と彼方の端境を畏れながらも踏み越える。精神を病んだ盲目の祖母「おもかさま」をよく労り懐いていて、大人たちは近寄らない女郎屋に出入りしては、そこの妓衆に可愛がられてもいる。(「おもかさま」とふれあう場面が特に良かった!)
幼さゆえに、というべきか、穢れのなさゆえに、というべきか。ときどき彼女は親の目を盗んで‘ひとり花魁道中’をしたり、自棄酒を浴びる父につきあって焼酎をあおったあげくに卒倒したりするのだった。



この何十年か後にこの世界は失われてしまうのだという先入観をなかなか拭えなかったのだが、著者の筆致は感傷や郷愁を微塵も感じさせない。過去の回想であるはずなのに、まるで今、そこで起きていたかのようにエピソードは綴られていく。
してみれば、これは特に水俣以外の古里でも良かったのかもしれないのだ。「かつての水俣」は懐かしき「かつての日本」の光景でもある。日本人誰しもの原風景としての故郷を幻想させる。あるいは、あえて‘あの水俣病の’という枕詞を避けようとしたのかもしれない。水銀漬けにされた郷土の汚名を晴らすために、かつての光芒を書き記そうとしたのかもしれない。よそ者に穢された故郷をペンで浄化しようとする精一杯の試み、またはなにがしかの宣言を含ませた、言葉ひとつの抵抗だったのかもしれない。
これは著者の自伝的な内容ということだが、幼少期の出来事をここまで克明に記憶しているものだろうか。この作品が書かれたのは70年代の半ば、石牟礼さんが四十代後半の頃である。おそらくこれは書き換えられた記憶なのであり、やはり小説なのだと考えるのが自然だと思うのだが、それにしてもこのリアリティの堅牢さ、記憶の純度とその精度の高さといったらどうだ。本当はこれは石牟礼さんには現在も見えていて、感じている光景であって、われわれに見えていないだけなのではないか。
どこかで目にした覚えがある「石牟礼道子・巫女伝説」という言葉が思い出された。固く扉を閉ざしたこの人の仕事部屋の重力は歪んでいて、霞んだ壁の向こうはどこか別の時空に接続されている。そんなあらぬ想像もたくましくしたのだった。

 おかっぱの首すじのうしろから風が和んできて、ふっと襟足に吹き入れられることがある。するとうしろの方に抜き足さし足近寄っていたものが、振り返ってみた木蓮の大樹のかげにかくれている気配がある。高い梢に眩しく浮上している半咲きの、白い花と花の間の空に、いのちの精のようなものを見たような気がして、わたしはそこらの茱萸の木、櫨の木、椿の木などのめぐりを歩いてみるのである。それは一種の隠れんぼだった。


しかし、「子どものふり」したまま大人たちの輪に入りこんで会話に耳をそばだてている「みっちん」の姿には、後年、訪ね歩いた水俣病患者の家や病院や集会の片隅に控えめにたたずみ、じっと耳を澄ましている『苦界浄土』の「わたくし」が重なって見えてくるのも事実なのである。
子どもの頃から「みっちん」に宿していた才能が『苦界浄土』に結実したのか。『苦界浄土』の石牟礼道子がその跳躍力によって四十年前の水俣に降臨したのか。いずれにしろ、叙事詩語り部としての本能をむき出しにして紡がれた小さな風土記は、生きとし生けるものすべての共生を肯定する寛容な精神に満ちている。
やがて戦争が始まり、発展する近代文明が蔓延させて現在に至る冷酷さ、排他性はどうか。チッソの水銀が殺したのは人間だけではない。海の、川の、山々の、住民と共にあった名もなき神々をも殺したのである。環境破壊とはそういう事態なのだということを、あらためて思い直す。
自分で白粉を塗り、髪を結い、帯を締めて、ひとり街道を練り歩く「みっちん」の花魁姿はたしかに奇っ怪で滑稽だったが、しかし、彼女の後ろにはこの地に宿ったすべての魂と神さま方が舞い踊るにぎやかな列なりがあったのだ。それが見えるかどうかだ。


全日本人とは言うまい。こころ優しき日本代表級の傑作は、つまり、本田のPK並み。もちろん本年ベストの一冊である。
(本作品は1976年に朝日新聞社より単行本が刊行され、1980年に文庫化された。そして、この四月に河出文庫に再収録された)