宮内悠介 / ヨハネスブルグの天使たち


『盤上の夜』宮内悠介さん待望の新刊。出たらすぐ読むつもりだったのに遅くなってしまった。



【 宮内悠介 / ヨハネスブルグの天使たち / ハヤカワSFシリーズ Jコレクション (261P) ・ 2013年 5月(130629-0703)】



・内容
 ヨハネスブルグに住む戦災孤児のスティーブとシェリルは、見捨てられた耐久試験場で何年も落下を続ける日本製のホビーロボット・DX9の一体を捕獲しようとするが─ 泥沼の内戦が続くアフリカの果てで、生き延びる道を模索する少年少女の行く末を描いた表題作、9・11テロの悪夢が甦る「ロワーサイドの幽霊たち」、アフガニスタンを放浪する日本人が殺人事件の謎を追う「ジャララバードの兵士たち」など、国境を超えて普及した日本製の玩具人形を媒介に人間の業と本質に迫り、国家・民族・宗教・戦争・言語の意味を問い直す連作5篇。才気煥発の新鋭作家による第2短篇集。


          


『盤上の夜』ほどじゃないなぁ…と思いながらあっさり読了した。囲碁や将棋の盤面が底知れぬブラックホールか出口なき迷宮のように思われて、内宇宙へのめくるめくトリップ感に戦慄させられたあの衝撃的デビュー作と比べると、いささかものたりなさも感じてしまった。
SFマガジン掲載の四話に書き下ろしの一篇が加えられた全五篇。デビュー作にはその作家の個性と本質が凝縮されているといわれるように、  『盤上の夜』  にはたしかに全身全霊にして入魂の凄味があった。日本SF大賞受賞。SF作品ながら異例の直木賞ノミネート。すべてを出し尽くし、書き尽くしたのだとしても不思議ではない鮮烈な傑作でデビューした後、「仕事」としての創作活動は難しいものだろうとは思う。
どうしてあんな奇々怪々な作品を生むことができたのか、こっちはその天才に迫ろうとして羽生善治やボビー・フィッシャーの本を読んでみたりもしたのだ。無駄な試みだったわけだが。それほど強烈な印象をもたらした作品と新作を並べるのはフェアではないとわかってはいる。

 1463回目の落下。
 ある日二人の子供が景色に加わった。白い女の子と黒い男の子。最初は何かと泣いていた。身長が伸び、顔が大人のそれに近づいた。笑顔が増えた。二人の成長を見守ることがPP2713の新たな喜びとなった。ときには目が合う気さえした。それはクラッシュでは満たされない何物かを確実に埋めた。同時に、落下がふたたび苦痛に戻ったことをそれは意味した。


それにしても、こんなものだろうか? いったん本を閉じて、不可解だったところを注意して読み返してみると、あれれ?…… おおっ!と発見に驚くこと数回。結局もう一度全篇を読み直し、ある部分は二度、三度と再読したのだった。『虐殺器官』と状況設定が似ていたこともあって、つい軽く読み流してしまった自分のミス。宮内さん、すみません! やっぱりこの人はなかなかやってくれる。
特に第二話の9・11テロをテーマにした「ロワーサイドの幽霊たち」は、フィクションとはいえとんでもないことがさらりと書いてある。着地が決まろうが決まらなかろうがE難度の驚天作。一読でそれがわからなかった自分が情けない。実は今でもどういうことだったのか正確に理解している自信はないのだが、思えばこの作家は『盤上の夜』でも新しい身体性を獲得しようとする人間がねじれて歪んでいく過程を平然と書いていたのであり、この作品からもそういう生理的な変異の感覚、知覚が新たに開かれるような興奮を感じずにいられないのだった。



「DX9」という日本製の歌う玩具が近未来の紛争地で本来の用途ではない特殊な役割を果たす。廃墟と化した高い塔から降りそそぐDX9が全五話に共通のイメージだが、DX9そのものが主役なのではない。南アフリカアフガニスタン、イエメン、ニューヨーク、北東京。ある場所では日常風景の一部にすぎず、ある地域では死者の記憶としてこの機械人形は使われるのだが、固有名詞や愛称を与えられることもなく商標名で通されているように、その存在はどこまでも機械のまま無機的である。
だが一方で、宗教や部族、民族対立に端を発して双方が共に‘聖戦’を唱えながら殺し合う人間は有機的存在といえるのだろうか。マン-マシンSFではほとんどの場合、ロボットが感情らしきものを備えて人間に接近するように仕組まれているが(それも人類のエゴの一部である)、ここでは宗教や思想を語っていながら人間の方が非人間化していくように描かれる。DX9は何かの媒介のようにもアイロニカルな象徴のようにも受けとれるのだが、明確な答えは書かれていない(と思う)。むしろ、DX9が投入されてたどり着く結末の‘その先’に何が待っているのかが気になる(ふつう、SFはそれを書くものではないか?)。
理性を失くした人型の袋の底にこびりついた人格と精神の残滓。それをどう処理するのか。それもこの連作の一つのポイントだった。

 「覚えておけ。……六百万分の一になりたい人間もいるんだ」
 すぐには、なんの数字であるかわからなかった。それからザカリーがユダヤ人であったことを思い出す。二次大戦中、彼らが殺されたとされる数字だ。


『盤上の夜』とのいちばんの違いは文章にある。ぎりぎりに集中力を高め、登場人物に没入して書きつけられた前作の文章は濃厚に練りに練られたもので、ときに散文詩的な抒情すら感じさせた。
締切があり枚数制限がある雑誌掲載を前提に書かれた今回の文章に、前作ほどの技巧とエネルギーの傾注は感じられない。わざわざ平易な語り口に徹しているようにも見えるが、十分に精査し咀嚼された言葉ではないようにも思われて、読みごたえは薄い。日本人にはにわかに理解しがたい民族、部族、宗教間の対立を取りこんだ紛争地帯を舞台にしたこともあってか、ハードボイルド調の文体には消化不良の感も否めない。ただ、各篇最後に附された参考文献を見ると、およそSF作家が読みそうもない書籍名が並んでいて感心させられたりもしたのだった。
デビュー作からも感じられたことだが、この作家はSFというジャンル、フォーマットに縛られる人ではなさそうである。今後は人気作家として機能性や機動性をも求められるようになる。商業活動に埋没しないでほしいと願うのだが、そんな心配は無用だろうとも思われる。
個人的には、誰も試みたことがない恐るべき方法で‘人間の領域’を狂わせながら拡張してしまうのがこの人独特の作風ではないかと感じている。もちろん、その片足は文学に突っこんでいる。今年三月に中日新聞に掲載されたインタビュー記事によれば、精神医療を題材にした長篇も準備中とのこと。またまたやってくれそうな予感がしている。