対話集 原田正純の遺言

【 対話集 原田正純の遺言 / 朝日新聞西武本社・編 / 岩波書店 (296P) ・ 2013年 5月(130612-0617)】



・内容
 水俣病をはじめ、人の命や尊厳を脅かす産業社会の負の面に医師として半世紀以上対峙し、2012年6月に亡くなった原田正純氏。「被害の記憶や教訓。戦後の日本が抱えた問題を後世に伝えたい」との強い思いから、死の直前まで半年間、患者や関係者15人と対話を重ねた。一部が朝日新聞西部版に連載されたその貴重な記録を一冊に。


          


今月の一周忌に合わせて出版された原田正純さんの関連本をもう一冊。
水俣病患者家族や共同で公害問題研究に取り組んだ学者など、原田さんに関わりの深い十五人との対談集。はじめは巻頭の石牟礼道子さんとの対談だけ読めばいいかと思っていたのだが、水俣病の歴史的証人による、かつてこの国で起こったとはにわかには信じがたい実話の数々と、「公害は差別のある所に起こる」など、現代にも通じる示唆に富む発言が引き出されていて、結局全篇読んでしまった。
1956年の公式確認から半世紀を過ぎた現在まで、ひと言で「水俣病」といっても実に多様な局面があったのだが、それぞれの当事者と原田さんが当時の状況を振り返って語り合う。興味本位の第三者として水俣病事件史を一本のストーリーに見立てると、これはその秘話というかインサイドストーリーのようにも読めるのだった。
しかし、いずれの対談もたんなる回想ではない。原田さんと対談者、両者が語り合う中に今なおにじみ出てくる苦渋、痛憤、後悔がひしひしと伝わってくる。自分なんぞが言うのはおこがましいが、これは本当に貴重な証言集だと思う。

原田  ぼくが水俣へ行ったとき、あるおかあさんが「先生、おかげさまで認定されました」って言われたんです。「ああ、よかったね。いくら補償金が出ました?」って訊いたら、「三万円です」と言われたんです。ぼくはてっきり月三万円だと思ってた。年間三万円だったのね。


朝日新聞西部本社が企画した十五回の対談は昨2012年の一月から六月にかけて行われた。最後の対談は六月三日。ということは、原田さんは亡くなる直前までこの対談を行っていたということで、彼がいかにこの企画を大切にしていたかがわかる。これが最後の仕事になるかもしれないという自覚はあったのだろうか。晩年の原田さんは大病を患い、大きな手術も何度かしていて、けして万全な体調ではなかったらしいのだが。
対談では数十年前の出来事が語られているのに少しも古さを感じさせない。自分も読んでいて飽きることがない。それどころか、興味は増すばかりだ。それはどうしてかといえば、原田さん自身が四十年前に書いた自著  『水俣病』  について今読んでも「古くない」と語っているように、「本質は変わっていない」からなのだろう。何ひとつ解決していないし、終わっていないからなのである。



医学の常識をくつがえす前代未聞の難病が発生した。目の前に広がる豊かな漁場、不知火海の魚を代々生活の糧にして暮らしてきた漁民たちは、よもや自分が獲った魚が水銀に汚染されているなどとは考えてもみなかった。劇症者は痙攣が治まらずに‘踊り死んだ’。先天的に神経を冒された子どもも次々に生まれてきた。治療法はなく、患者たちは今なお苦しみ続けている。医師たちはどう対応してきたか。行政は、加害企業はどう対処したか。現在、存命している二世、三世はどうなっているのか。いつもまともな説明はなかった。聞いて呆れるしかない。不条理にもほどがある。
原田さんたちはそれでも人類初の経験に正対した。特に「水俣―歴史への問いかけ」と題された第三章での、富樫貞夫氏(法学)、斉藤恒氏(新潟水俣病に取り組んだ医師)との対話には、真に公正中立の立場で水俣に関わった者にしか語れない真実が記されている。
水俣病は六十年代後半以降、認定訴訟をめぐって大きく揺れたのだが、もちろん患者当人にとっては認定されることが最終目的なのではない。身体を治してほしい、元に戻してほしいという当たり前の願いは、書類上の認定審査にすりかわってしまった。補償金を受け取れば終わりということにされてしまったのである。(そしてそれはカネミ油症や他の公害病も同様のようである)

原田  だから、水俣病の悲劇は、診断が補償と結びついていることに、医学があまりにもこだわりすぎたんです。本来、「この症状はいくらか」ということは、医者とは直接関係ないわけでしょう? われわれは水銀の影響があるかどうかを判断する。ところが、それが補償と結びついていたために、補償金の千何百万円に該当するかどうかの判断にすり替わっていった。そこが構造的に医学の限界だったと思うんです。


裁判と自主闘争が始まった時期の水俣病のキーワードの一つは「分裂」のようである。患者は「訴訟派」と「一任派」に分裂。チッソ労組も分裂。水俣市民も分裂。いやがらせ、差別、偏見、中傷、侮辱が市民間に横行し、水俣は泥沼化したという。以前「死んだ魚を食った貧乏人がかかる病気」と嘲笑した者がやがて自らも発病した。「水俣病」という呼称を否定しようとする動きもあったようだが、水俣病とはただ一病理学的な名前ではなく、社会現象の名なのだとつくづく思う。(こういう混乱の構造 ―推進派と反対派の― は現代も目にしないか?)
後に整理して語れるようになったとしても、当時は混沌として先行きの見えない現場に原田さんは足を運んで、治る見こみのない患者を診つづけた。医師としてどうあるべきかを自分自身に問いながら。もし、この人のそうした行動を‘闘い’と表現するのなら、それは‘言葉による闘い’だったのだと思う。彼の著書、発言録、録画映像からうかがえるのは、医学書に書かれていない病気症状を、何よりもまず患者自身に説明しようとし、書こうとし、話し、記録しようとした姿勢である。言葉に対する感覚の鋭い医師がそばにいたということが、どれだけ絶望にうちひしがれた患者を慰め、励ましたことだろう。
水俣でどういうことが起こったのか、自分はまだ好奇心で読んでいるだけだ。劇症患者の症状や未認定のまま放置された患者、あるいは差別をおそれて申告しなかった人々の心情を考えると、まるで遠い異国の出来事のようにも感じてしまうのだが、原田正純の存在が現実の日本に結びつけ、目を開かせてくれる。
原田医師の問いかけは、民主主義とは何かの問いでもあった。近い将来、必ずここに記された教訓が試される日が来る。いうまでもない、原発事故と放射能汚染の問題である。


本年ベストにして「永遠です」な一冊。あらためて原田さんの業績に感謝を捧げたい。