吉田司 / 下下戦記


今年の夏、ある一篇の詩を探して古本屋めぐりをした。
終戦の日前後の新聞コラムにその詩の一部が紹介されていて、全文を読みたいと思ったのだ。作者もタイトルも書かれてあったからわかっている。ただ、何という詩集に収められているのかがわからない。とりあえずその人の本を探した。
一冊ぐらいあるだろうと高をくくっていたのだが見つけられなかった。市内の図書館も回ってみた(蔵書検索をしても良かったが、それではつまらない)。名詩選のようなオムニバス本も片端から開いてみたが、ない(どうして谷川俊太郎ばかりあるんだ?)。 わずかに都道府県別「郷土文学全集」の、その詩人の故郷・広島県の巻に、最も有名な詩が一篇だけ掲載されているのを見つけただけだった。


でも、あきらめたわけではない。自分はいつか必ずその詩にたどり着く確信がある。これまでにもそうやって本を見つけてきたのだ。
目的の詩集はなかったものの、ずっと探していた本を何冊か手に入れることができた。良書なのに絶版になって消えてしまう本のなんと多いことか。電子書籍化されることもなく埋もれていく作品の、なんと多いことか。紙の本をなるべく買っておこうという気持ちがますます強くなっている今日この頃である。



吉田司 / 下下戦記 / 文春文庫(430P)・1991年(140906−0912) 】


・内容
 「賠償金なんていらないんだ。人並みに恋をして結婚したい」 70年代の日本を揺るがせた水俣病裁判。だが若き患者たちの本音は世間に黙殺されていた。安アパートの一室に集って自活して、支援者に振られたり神戸へと駆落ちしたり…。十代二十代の患者たちと八年間、寝食を共にした著者が赤裸々に描いた自立運動の軌跡。第19回(1988年)大宅壮一ノンフィクション賞受賞。


     


石牟礼道子『苦界浄土』以来、必読マークを付けていた本をやっと手に入れた。吉田司の『下下戦記』文庫版。カバー折れ書き込み傍線有り、本体並程度で\800也。単行本は1987年(昭和62)白水社から刊行。
意外だったのは、もっと古い本だと思いこんでいたからだ。『苦界浄土』が1969年刊。それから十年後くらいの話かと思っていたのだが、実際に本になったのは十八年も後、昭和の終わり近くになってのことだったのである。あの白水社が最初にこれを出していたというのも何やら不思議。
著者あとがきによれば、書かれたのはやはり70年代半ばから後半にかけてのこと。出版まで長い年月がかかったのは、この本そのものが水俣に起こったあらゆる現象の一部だったからだろうか。

 不覚にも、私も涙がこみあげてくる。若い患者たちはどれほどこうした言葉を人様に向かって吐き出したかったことか。どれほど「水俣病患者」という「虚飾」をはぎとり、ただの漁師の息子や娘として部落の衆や支援者と出会いたかったことか。どれほど身悶えして娑婆の世への隘路をさがし続けてきたことか。そしてそれがどれほど越えがたい壁であるか。敏や晶子達はただそれだけのために、物心ついた時から泥だらけになってころがりまわってきたのではなかったか。


一口に水俣病といっても、その程度は実に様々だ。電波に乗せられ、グラビアに載せられるのは、決まってわかりやすい異様な絵― 節々が折れ曲がって寝たきりだったり、手指が震えて食事もままならない重症患者ばかりだったろう。当初は被害の異常性を伝えるにはセンセーショナルな映像の方が即効性があったかもしれない。患者側は毒に冒された自分らの身体を(ある意味で)広告として活用したし、メディアは報道の看板を楯にそれを売り上げアップのために利用した。「これが水俣病の実態だ!」という仰々しいコピーが目に浮かぶではないか。
しかし、実体は五体不満足な患者ばかりではないのである。比較的障がいの軽い若者だっていたのだ。一様に奇病の烙印を押された彼らは差別と偏見に満ちた‘娑婆’から閉め出されたまま青春期を迎えていた。
支援者の一人だった著者は、患者認定と補償金交渉に運動が集中する状況で声を殺した若い患者たちを集めて「若衆宿」という組織をつくった。若い水俣病患者の結婚と就職問題が彼の頭にはあった。その五年以上にわたる活動をしたためたのが本書『下下戦記』である。


はじめは青年サークルのような交流の場だった。若衆宿にやって来るのは十代二十代の男女で、彼らの家はそれぞれに派閥で別れていたりもするのだが、親の主張の違いを越えて同世代の仲間たちは結びつきを深めていく。
『苦界浄土』の患者の声は石牟礼道子の耳を通して言霊として響いたのだったが、ここでは親の前ではけして口に出来ない呪詛や思春期の悶えがぶちまけられていて、その冗舌ぶりはまったく70年代的青春群像といった趣きである。ある部分だけ抜き出せば、右翼も左翼もごった煮の放埒なエネルギーに圧倒され、お先まっ暗な若者の破れかぶれの突撃と玉砕には笑ってはいけないと思いつつも笑わされ、背景を忘れさせられもする。
しかし、彼ら水俣病の若者には生きるべき未来がないのだった。彼らの親たちは人生の途中で水銀中毒によって有形無形の財産を奪われ失い、それゆえに苦しむ者たちだったが、その子らは初めから奪われて生まれてきたのだった。云ってみれば、彼らは‘水俣のロストジェネレーション’だったのだ。
そんな若者の交流の場は自然と黙殺された自分たちの存在を主張する社会的政治的な活動へとシフトしていく。

「あだぢ、親にゃ反対出来ん。生、生ぎ、生ぎてゆがれんごなるッ。反、反対出来んもん……。あ、あだちゃこぉれで、こぉれで一人になる。皆んながだんだん遠ぐなってゆぐみだい。……誰が、あッ誰、誰ーれが、あだぢば後ろから刺、刺ぢでぐれないがちら?」
 立って行って、一人ポツンと縁側から雨の坂道を見つめている、晶子よ……。確かにお互いを刺すほどの絆を、我われは育てる事ができなかった。しかし晶子よ、今はお前を捨てて、行くぞ。捨てて行くよりほかに、悲願を磨く道がない時もある。


彼らの訴えは「死んだ金(補償金)はいらない、生きた金(自ら働いて得た金)を掴みたい」という、それまでの水俣病史においてついぞ叫ばれたことのない叫びだった。
その成り行きは、ずっと後にこの本の出版が阻まれる経緯とほとんど似ていた。つまり、「余計なことを言うな」という身内の圧力は思いのほか大きく、強力だったのである。何と云うべきか、水俣病でさえもある種のブランドと化していて、人並みに汗を流して働きたいというまっとうな訴えはそのブランドイメージを傷つけるから(裁判や交渉に影響があるから)引っこんでろと頭を押さえつけられる。加害企業チッソと被害者の関係はそのまま水俣病患者たちの中にスライドされて、被差別側が差別する側に回る様相は、まさしく人間喜劇と笑いたくなるのだった。
若衆宿の活動は行き詰まっていくが、表面上の数々の騒動を透かして彼ら ―敏や清市や晶子ら― の内面をのぞきこめば、そこには自らの「血」への激烈な抵抗運動がある。のめりこんで読んでいて息苦しさから少し目線を離してみれば、彼らがぶつかっていた厚い壁は必ずしも水俣特有のものではないし、自分の知らないものでもないことに気づく。
何のことはない、「小さき声はないものとする」という横暴は事あるごとに現代でもしょっちゅう見かける光景ではないか。何でも金の問題にすり替えて解決が図られるのはわれわれが当たり前に慣れ親しんだシステムだ。ならば、われわれ現代人だってみんな病気ということだ。「公害や災害は必ず貧しい地域に起こる」というのなら、自分だってそのように犠牲を仕向ける責任回避のシステム上に座っているのである。