星野智幸 / 夜は終わらない


これまでで一番長い(?)星野智幸さんの本。500ページ、これは手強そうと一週間ぐらいかけて読むつもりでいたのに、予想外のリーダビリティの高さに驚き、星野智幸ってこんなに面白かったっけ?と嬉しい悲鳴を上げつつ、三日と少しで読了。またまた寝不足の数日間になってしまった。



星野智幸 / 夜は終わらない / 講談社(528P)・2014年5月(140914−0917) 】


・内容
 婚約者が自殺したとの一報が入った玲緒奈。しかし彼女には、次に殺さなくてはならない別の婚約者がいた。セックスや結婚を餌に次々男を惑わし、財産を巻き上げ、証拠を残さず葬り去るのが日常の玲緒奈には不思議な掟があった。「ね?私が夢中になれるようなお話をしてよ」 死の直前、男に語らせる話の内容で命の長さが決まっていく。最期の気力を振り絞り話し続ける男たち。鬼気迫るストーリーが展開され、物語のなかの登場人物がまた別の話を語り始めたり、時空を超えた設定のなかにリアルなものが紛れ込んだり……全体の物語のなかにさまざまな短篇が入りくみ、海へと流れる大河として眺望できる大傑作。


     


結婚詐欺の常習犯で飽きた男はためらうことなく始末してきた悪女・玲緒奈。性格(たち)の悪いことにこの女は男を消す前にラストチャンスを与える。「私が主人公の、私が夢中になれるお話をして」― その物語が合格か否かで男の命運は決する。全裸で焼豚のごとく縛られて屈辱の試練に挑むのは軟弱地味男のクオン。
小説全体としてはひとえに彼が語る作中作である短篇の出来いかんにかかっているのだが、これがクオン君大健闘でことごとく読ませるので一粒300メートルならぬ一話300万メートルという感じで、やめられない止まらない。
ここで話されるような短篇をそれぞれ単独で提示してきたのがこれまでの星野作品だとすると、多彩でばらばらなアイデアを「用済み男を処分しようとしている女と、殺されるのを先延ばししようとする男」の構図に落としこんで、一つの大きな流れにまとめる試みが見事に奏功している今作。

 「ぼくが言いたいのは、これから話す物語を聞き始めたら、玲緒奈はもう帰ってこられないってことなんだ。もちろん、ぼくも。これは、聞いてしまったら二度と帰れない物語なんだよ。それが夜の住人の時間ってことなんだ。それでもいい? 玲緒奈にはこれを聞く覚悟ができてる?」
 「何もったいぶってるの。とっとと話し始めなさいよ」


難題をふっかけられたクオンが最初に語り聞かせる女とイルカ(キノコとボト)のファンタジックな恋物語がこちらの‘星野智幸モード’を一瞬にして払拭する出来映え。場末の中華料理屋で相席したたれ目の男ボトはくちばしみたいに突き出た口でつまみ上げた水餃子を飲みくだしている。向かいに座ってそのチャーミングな仕草に見惚れていたキノコはたちまち恋してしまい…… その後の美しいランデブー場面では恥ずかしながらハァハァして尻のあたりがむずついてしょうがなかった。
自分的にはもうこの一篇だけで即「クオン合格!」だったのだが、それでは夜は早くも終わってしまう。無慈悲な強欲女はこれからが本番なんだよとばかり、肉に食いこむ荒縄をいっそうきつく締め上げながら「もっとお話しなさい」と強要するから、「あうっ!」と苦悶の声を漏らしては、ちぎれるほどに激しく尻尾を振り動かして反応してしまったのだった。
夜ごと密室でクオンが語り続ける物語から玲緒奈は逃れられなくなっていく。その寓話めく物語の中に本当の玲緒奈はいるのか。これは語り手クオンが物語の檻に彼女を閉じこめようと仕組んだ逆襲の、あるいは道連れのための罠なのか、はたしてそんな思惑はないのか。物語とその外側の二人の関係がからまりあい、さらに別々の物語だったはずのものが入れ子式に組み合わさって、いつしか聞き手も語り手も(当然、読み手も)引きずりこまれていく……


クオンの超絶話芸が冷血漢・玲緒奈をたじろがせる。登場人物と玲緒奈が混じりあって、もはや囚われているのはどちらなのか、主導権がどっちにあるのかわからない。暗黙の了解のうえで互いの役割を忠実に演じている二人芝居のようにも見えてくる。
延長戦の夜が何日も続くうち、当初の支配者と被支配者の関係は薄れていき、聞いている玲緒奈はおろか話し手のクオンさえ、終わりのない物語の傍観者となっていく。あらぬ方向に暴走と拡散を始める物語。ときに登場人物として物語に現れてしまいそうになるのだが、うっかりそれを許せば自分は過去に消去されていて、ここに存在するはずはないのだからスリリングでもある。そうして密室での同居生活は自家中毒気味に奇妙な充足感をも匂わせて続いていく。
マジックリアリズムの眩惑的な語りにラテン音楽や外国人コミュニティなどの著者の関心事項が散りばめられているのはいつもの星野智幸である。しかし、それらのパーツを活用して現代社会をアナザーサイドから変奏しようとしていた『俺俺』までの観念的なナイーブさはすっかり抜けて、ずっと骨太で直線的に物語ろうとする熱い野望が感じられた。

 それにはやはり、語らせることだ。もっともっと語らせるのだ。もはや一文字も浮かばないまでに、言葉を絞り出させるのだ。クオンは苦しむだろう。終わったと安堵しているだろうが、終わってはいないのだ。クオンを殺してやりたい、めちゃくちゃにしてやりたいという私の衝動も、それで少しは収まるだろう。殺す代わりに中身を搾り出してやる。すっからかんにして、正体をさらけ出させてやる。


エンドレスに紡がれる物語世界に心酔耽溺していく二人を指して「人はみな物語の囚人なのだ」なんて云ってみたくもなるのだが、そんな単純ではないのはわかっている。「ファンタジーこそは合法ドラッグ」と云うのならさほど的外れではないかもしれないが。
玲緒奈がクオンを殺せば、彼女について話す者はいなくなる。それは玲緒奈という人間がこの世に存在していなかったということになるのか? では、物語中に存在さえしていれば、それが生の証になりうるのか? たとえ物語が残ったとしても、聞き手あるいは読み手がいなければ物語は存在しないのに等しい。
こんな毒男毒女の共犯のたくらみにまんまとはめられ、共感さえ覚えて寝るのを忘れている自分は何なのだろう。実生活より物語の方が充実しているなんてことがあってもいいものだろうか? いや、人生の欠落を補充するためにこそ人は物語(ファンタジー)を求めるのではなかったか? 語られるべき自分の物語が何もないのは、やっぱりそれは淋しいことなのだろうか……?
次々と沸いてくる自問また自問は濁流となって渦を巻き、欺し欺され、呑みこんで呑みこまれて混沌のうちに小説は終わってしまうけれど、カタルシスはいささかも失われることはなかった。もっと長くてもいいのにと思える作品はそう多くはない。終わってほしくない夜をくれた星野智幸の最高傑作はもちろん本年ベストの一冊!