M・R・コワル / ミス・エルズワースと不機嫌な隣人


【 メアリ・ロビネット・コワル / ミス・エルズワースと不機嫌な隣人 / ハヤカワ文庫FT(370P)・2014年4月(140918−0920) 】

SHADES OF MILK AND HONNEY by Mary Robinette Kowal 2010
訳:原島文世


・内容
 19世紀初頭、女性のたしなみとして日常的に幻を創る魔術が用いられる英国。魔術の才があるジェーン・エルズワースは、望ましい結婚相手探しに夢中な妹のわがままに振りまわされてばかり。そんなとき、ジェーンは舞踏会で雇われ魔術師のヴィンセントと出会う。無愛想で冷ややかという彼の印象は、ある事件をきっかけに変わっていくが……。ジェーン・オースティンが描いた時代をかろやかに再現した[幻想の英国年代記]。


     


高慢と偏見」は読まないと言っておきながら、こういうのは読んでるという…。“魔法のことをのぞけば、オースティン作品の一冊のよう”という帯文につられて買ったものの、空振りに終わった。
イングランドの片田舎に暮らすエルズワース家の姉妹が地元の名士と知り合い、舞踏会や晩餐に招かれて胸をときめかす。主人公で姉のジェーンは二十代後半、容貌は人並みだが魔法の才に秀でている。結婚をあきらめている彼女は妹の良縁を願っている。一方、年齢の離れた妹メロディは自他ともに認める美貌を誇るが、甘やかされて育ったせいで教養に乏しい。メロディのお相手候補として三人の男性が現れ、引き立て役のジェーンは妹の言動に振り回されてばかりいる…というロマンス中心の展開。
登場人物の性格や役どころ、人間関係は「高慢と偏見」の世界観をそのまま踏襲している。ということは、誰がジェーンの相手、ダーシー役なのかということに注目して読めばいいということになる。


登場人物の中でもっとも‘ダーシーっぽいヤツ’を見つけるのに苦労はしないのだが、結果を言ってしまえば、ジェーンに惹かれていたのはその男ではなかった。小説的には予想を裏切る展開だったが、読んでるこちら(=「高慢と偏見」保守派)からすると「はぁ?」と思ってしまった。では、あの‘ダーシーっぽいヤツ’はどうなったんだよ?と突っこみを入れたくて、今ちょっと怒りながら書いてるわけである。
だいたい途中までの流れと辻褄が合わないではないか。そのダーシー風な彼に思いがけずファーストネームで呼ばれてジェーンがウキウキしていたあのエピソードは何だったのさ? ある男にメロディと‘ダーシーっぽいヤツ’の妹が二人ともたぶらかされているのに気づいて機転を利かせたのはジェーンである。その駆け落ち&決闘事件も「高慢と偏見」をなぞっているのに、それでジェーンと‘ダーシーっぽいヤツ’が結ばれないというのは、どう見ても「高慢と偏見」的に不自然ではないか! 中森明菜ではないが、「いいかげんにしてー」と歌いたくなる。

 メロディが息をのんだ。「森には狼がいるってお母さまが言ってたわ。もし迷路に入ってきたんだったら?」
 「狼なんかイングランドに―」

 ※ いません。


これは「高慢と偏見」ではないのです、と言われればそれまでなのだが…。
絵画と音楽に加えて「魔法」も女性のたしなみの一つとされているのが本作の特徴。しかし、魔術を扱える人物はジェーンともう一人の男しか出てこない。この設定なら作品中、最も身分の高い教養人である子爵夫人(「高慢と偏見」でいえばレディ・キャサリンに該当)もマスタークラスの魔法使いであるべきと思うのだが、彼女も魔法を使えない。だから取って付けたような余計な設定のようであまり説得力がない。
高慢と偏見とゾンビ』からカンフー要素を取っ払えばまんま「高慢と偏見」だったように、「魔法のことをのぞけば」『高慢と偏見』そのものにちがいないという先入観を勝手に持っていたのは間違いだった。しかし、この世にはどうしてこの女性があんな男と…(その逆もしかり)という話以上のファンタジーはないのだから、小道具(=魔法)に頼る時点で減点なのである。魔法を使っていさえすれば何でもファンタジーというわけではないのだ。


高慢と偏見」だってストーリーそのものはいたってシンプルだが、あれを「高慢と偏見」たらしめているのは小さな芽が可憐な花へと変わっていく過程の徹底した細部の書き込みだ。そよ風に震える木の葉のごとく描写されるビビッドな心の揺れと迷いと動きが読者をじれったくてもどかしい気持ちにさせるのだ。しかしこの作品はあまりに明け透けで直接的で、主人公のロマンスは王道ではなくて大穴予想。男女関係も姉妹関係も涙が乾かぬうちにころころ変わって、そのためにスカスカで小説の態が整っていない。
そもそも「高慢と偏見」はジェイン・オースティンが自分がよく知っている身の回りのことだけを書いたものだ。二十一世紀のいま、二世紀前のあの時代のことを書こうとするのは、それだけでずいぶんなハンデがある。英国の階級差や習慣に疎い現代アメリカのジャンル小説家が思いつきで名作の焼き直しを書いてしまった粗さばかりが目についたのだが、原作を意識しないで読めば、それほど欠点を気にしなくてすんだのかもしれない。
たぶん今でもあちらでは「高慢と偏見」の亜流が次から次へと書かれているのだろう。そのうちの一作がたまたま自分の眼鏡に適わなかったからといって、そんなに腹を立てることはないのだ。こんなことなら小山太一の新訳版『自負と偏見』を読んだ方が良かったという後悔など無用。絶対に読まないぞ。読まないからな。(←意地になってる)