ピーター・バラカン / ラジオのこちら側で


「When I was Young,I listend to the radio waiting for my favorite song」とカレン・カーペンターは歌い、「Radio what's new? Radio someone still loves you 」とフレディ・マーキュリーは大観衆の手拍子とともに歌った。「内ポケットにいつもトランジスタラジオ / 彼女教科書広げてるとき、ホットなメッセージ空にとけてった / ああ、こんな気持ち、うまく言えたことがない、ないぁぃぁぃ」は清志郎だ。



【 ピーター・バラカン / ラジオのこちら側で / 岩波新書 (240P) ・ 2013年 1月(130713-0716) 】



・内容
 1974年、テレビやラジオ、ロックやジャズへの未知なる期待が渦巻いていたアジアの国・日本に降り立ったロンドン青年。文化の壁にぶつかりながら、素晴らしい音楽を電波にのせるべく今も奮闘中の著者が、音楽シーンとメディアの激変を振り返り、愛してやまないラジオと音楽の可能性を、今あらためて発信する。


          


18日の新聞海外面にスティービー・ワンダーの記事が載っていた。米フロリダ州で17歳の黒人少年を不審者であるとして射殺した自警団員の男に無罪判決が下された。正当防衛を認める「スタンド・ユア・グランド法」に抗議して、63歳のシンガーは今後フロリダでの公演を行わないと発表した。
このニュースをスティービーの人となり、ミュージシャンシップとともに伝える音楽番組が日本にあっただろうか。あるとすれば…… ピーター・バラカンさんの番組だろう。「です・ます」調のあの柔らかな語り口で簡潔なコメントを添えて、七十年代フリー・ソウルの時代のスティービーの曲を何かかけたのではないか。
静岡では彼の「バラカン・ビート」を聴くことができないので確かめようがないが、ロックはただ能天気な娯楽音楽なのではなく、速報性のある時事メディアとしても機能することがあることを、これまでに何度も彼の番組から知らされてきた。

 また、NO NUKESというマディソン・スクエア・ガーデンでの反原発イベントの1979年のライブアルバムの解説を読んで、スリーマイル島原発事故や、原発そのものの危険性を初めて意識するようにもなりました。ぼくは本当に、音楽をきっかけとして社会のことを知る人間だったのです。


自分にとってピーター・バラカンさんはソウル・ミュージックの伝道師のような人である。この場合の‘ソウル’はいわゆる黒人音楽の一ジャンルに限らず、(人種を問わず)自由に誇り高く生きようとする人々のための音楽、ぐらいの広義である。
彼のナヴィゲートによって、自分は本当にたくさんの素晴らしい音楽を教えてもらってきたし、彼の放送は宇宙を飛び交う膨大な電波の中からひと筋の彗星となって自分のアンテナを震わせてくれたのだけれど、同じように感じているのはきっと自分だけではないだろう。
もし、三十年ぐらい前に「ボッパーズMTV」や「ミュージックシティ」(NHK-FMサウンド・ストリート」の後番組)に触れる機会がなければ、もう少しまともな オオカミ 人間になれたのではないかと思うのだが。



ロンドン大学日本語学科卒。「ミュージック・ライフ」等の大手音楽出版社シンコーミュージックの国際部員として著作権管理の仕事のために来日したのが1974年。その後、YMOのヨロシタミュージックに籍を移し、しだいにラジオ、MTV関連番組への出演が増えて独立、日本のマスメディアではまず紹介されない優れた洋楽を独自の視点で紹介し続けて今日に至る。肩書きはDJ、VJから現在は「ブロードキャスター」となった。
この三十数年のバラカンさんの半生と絡めて、ポップミュージックの変遷とラジオをはじめとする放送業界の環境変化が語られている。国営放送NHKと英BBCの違いはそのまま文化政策の差である。NHKと民放の違い、スポンサー(景気)の動向に左右される番組事情、番組制作の裏話など、興味深いお話が満載。
特に、9・11テロ直後からイラク戦争の間の‘イマジン’をはじめとする「ラジオで流すのにふさわしくない」放送自粛リストが150曲以上もあったというのにはあらためて驚かされたし、何が自由の国だと憤慨を新たにしたのだった。

 この時期の「バラカンビート」で、ぼくは曲の合間に新聞を読んだり、気がついた面白い情報を伝えたりしながら、He-Who-Must-Not-Be-Named(名前を言ってはいけないあの人)の批判を、遠慮なく繰り返していました。当時大人気の『ハリー・ポッター』シリーズで、宿敵の魔法使いを人びとはこう呼びます。その名〈ヴォルデモート〉を口にするのも憚られるほど凶悪な存在だからです。もちろんこのときはブッシュ米国大統領のことをさしています。


バラカンさんが昔も今もラジオと音楽好きなのは変わらないが、オタク的な趣味人のままだったなら、現在まで日本で活躍できただろうか。ここには、ただ好きな音楽に関わる仕事をしたいという一心ではるか極東の国にやって来たノンポリ青年が、ロック音楽を通じて社会に目を向けるようになり、世界の見方を学んで成熟した大人になっていく姿もかいま見える。ロックが少年を大人にする。そういう意味では、自分もバラカンさんと同じように年齢を重ねているのだと信じたい。
毎週ではないが日曜日に仕事が入ると、ちょうど山下達郎「サンデーソングブック」を聴きながら帰るのだが、この頃はしょっちゅう追悼特集をやっているような気がする。60〜80年代に活躍した偉大なミュージシャンの訃報が続く。ホイットニー・ヒューストン、ドナ・サマー。エタ・ジェイムス。ドナルド・ダック・ダンは昨年、(あろうことか)盟友スティーブ・クロッパーとのツアーで東京滞在中に帰らぬ人となった(涙)。ディープ・パープルのあのハモンドオルガン奏者、ジョン・ロードが一年前に亡くなり、ドアーズの名キーボーディスト、レイ・マンザレクもつい最近亡くなった。
おそらくバラカンさんの番組でも追悼のメッセージとともに曲をかける日が多くなっていることと思う。先に伝道師的存在と書いたが、‘語り部’としての仕事は今後さらに増えていくにちがいない。過去の映像はネットで簡単に見ることはできるけれど、生身のアーカイヴとしてピーター・バラカンさんのような方が存在していてくれることは誇らしく、頼もしく、嬉しい。その責任を良いプレッシャーに換えて、今後もご活躍いただきたい。
ソウル・ミュージックを聴き続けることは、ソウルを探求し続けることでもあろう。感性のアンテナを錆びつかせてはならない。



「ボッパーズ」で初めて見た、知る人ぞ知る存在だったトム・ウェイツ。こんなヤツだったとは……! その衝撃は厚顔の微・少年(当時)の無垢な心にそれはそれは暗く深い傷を負わせたのである。

     


たしか1984年か85年のボッパーズ年末スペシャルで年間優秀ビデオ作品を一挙に流す企画で見たカーズのこのビデオ。当時ぞっこんマイラブだった美人にアタックしてハング・アラウンドするヒントをこのビデオのある場面から得たのだった。もちろん空振りだったが。惚れた女のそばにいられるのならハエにだってなろうというものではないか! その性悪女の顔も名前も思い出せやしないのに、いまだにこのギターは弾けるのが悲しい。

          


R.I.P Ray Manzarek 1939-2013