伊東 潤 / 巨鯨の海


今回の芥川・直木賞芥川賞は、いとうせいこう『想像ラジオ』が有力視されていたものの落選。個人的にはせいこう氏と‘仲好し’の選考委員、奥泉光教授のコメントを聞いてみたいところ(…というか、お二人の文芸漫談でこれ以上のネタはあるまい!)。
直木賞候補の常連になりつつある『巨鯨の海伊東潤さんはまたも届かず。だけどだけど、これは素晴らしかったぞ!



【 伊東 潤 / 巨鯨の海 / 光文社 (336P) ・ 2013年 4月(130718-0723) 】



・内容
 和を乱せば、死。獲物を侮れば、死。時は江戸。究極の職業集団「鯨組」が辿る狂おしき運命とは? 網を打つ者。とどめを刺す者―。おのおのが技を繰り出し集団で鯨に立ち向かう、世界でもまれな漁法「組織捕鯨」を確立し繁栄する紀伊半島の漁村、太地。しかし、仲間との信頼関係が崩れると即、死が待ち受ける危険な漁法であるため、村には厳しい掟が存在した。流れ者。己の生き方に苦悩する者。異端者―。江戸から明治へ、共同体で繰り広げられる劇的な人生を描いた渾身作。「小説宝石」掲載に加筆し書籍化。


          


三年ほど前、狂信的な反捕鯨団体の偏向映画が話題になっていた時期に放送されたNHKのドキュメンタリーで、伝統のイルカ漁をしている和歌山県太地町で起きていることを知った。閑静な漁村にシーシェパードを筆頭とする海外の自称・環境保護動物愛護団体が大挙して集まっている異様な光景。漁を妨害したり町民の顔前にビデオカメラを突きつけて挑発し、言葉が通じないのをいいことに口汚く罵倒している様子は、暴力団と何ら変わらないように見えた。昔ながらの漁を守ってつましく生活してきた者がぎゅっと口を結んでじっと耐えていて、逆に(恥知らずにも自分たちの行為が反環境的であることに気づかくことなく)もっともらしい権利を主張してわざわざ遠い異国に土足で押しかけた連中がわがもの顔でふるまっている。その腹立たしいミスマッチ。
伊東潤さんの新刊は、その太地町を舞台に繰りひろげられる人間と鯨の闘いを描いた連作短篇集だ。

 今日の漁はうまくいったらしく、皆、鯨の血に染まった褌を堂々と晒して歩いてくる。それを狭い通りの左右に散った老人や子供が拍手で迎えた。
 鯨の血に染まった彼らの姿こそ、太地の男の象徴であり、子供たちの憧れの的である。しかし己と喜平次が、大人になってもその中に入れないことを、与一はよく知っていた。


定評の合戦描写における‘豪腕’は、今回は洋上に展開される勇猛果敢な鯨取りの絵巻にいかんなく発揮されている。前作『国を蹴った男』にも鯨漁を誇りとした伊豆の小藩の雄壮な絶品短篇があって、この作家の海洋ものの魅力はわかっていたのだけれど、今回はそのスペクタクルが一冊丸ごと全開なのである。   
小さな手漕ぎ船しかない江戸時代、どうやって巨大な鯨を捕ったのか。セミ、マッコウ、ゴンドウ、ザトウ、ナガス。黒潮に乗って紀伊半島沖に鯨が姿を見せると、太地の浜はにわかに活気づき、それぞれに役割を担った何十艘もの船が隊列を組んで出陣していく。遠巻きにしながら鯨が嫌う音を発する張木を叩いて連係プレーで網代に追いこんでいくのは、現在も太地で行われているイルカ漁と同じだ。
そして最後はどうしたって鯨と人との接近戦、持久戦になる。刃刺(はざし)と呼ばれる職人が銛を打つのだが、鯨のぶ厚い脂肪層を突き破って致命傷を与えるのは容易ではない。急所に一撃を刺そうとする猛者は赤黒くぬめりうねる波間を泳いで鯨の背に乗り移る。赤靄といわれる鯨が噴きあげる血飛沫を全身に浴びながら。



血湧き肉躍る古式捕鯨の顛末が活写されてはいるものの、鯨との闘いが各篇の主題ではない。命がけの仕事ゆえ、太地鯨組には厳しい掟が存在し、漁師たちの間には自力ではいかんともしがたい階級序列がある。親子、兄弟、幼なじみ、鯨漁の熱気に惹かれて全国から集まってくる流れ者。強固になればなるほど、組織に馴染めぬはみだし者も出てくる。そこに生じる人間間のさまざまな摩擦と葛藤のドラマがこの連作短篇集の本筋である。
バラエティに富む六篇を読んでいるうちに、これは伊東潤版の「日本三文オペラ」なのだな、という気がしてきた。地域あげての独特な集団作業が特異な風俗習慣を形成していく。個性を尊重して仕事が割り振られ、未熟な者にも年寄り子供にも某かの役割が与えられる。鯨に町の命運がかかった他所にはない共同体が生まれる。歓喜の浜に沖合衆は意気揚々と帰り、引き上げた鯨は町民総出で解体する。その様は躍動感に満ちているが、作家はその熱狂の裏にある暗さと冷酷さに目を向けることを忘れない。

 この時、晋吉は、太地のような閉鎖社会に潜入などできないことを覚った。常の町や村よりも命を張って生きている分、太地の者たちの神経は研ぎ澄まされており、晋吉のような船虫が入り込める余地などないのだ。
 ― こいつは真剣勝負だ。
 晋吉は覚悟を決めた。


直木賞選考を報じた新聞記事によると、これは「受賞してもおかしくない作品」だったが、「人間についてもうひとつ訴えるところがあれば」との指摘もあったとのこと。ほほう。誰が言ったのだか知らないが、なかなか高踏な意見ではないかね。
小っぽけな人間が巨大な海洋生物に挑む。そこに人類の叡智の一部がないわけがなかろう。仕事と呼ぶにはギャンブル的蛮行だが、ただ無鉄砲な殺戮エンタテイメントではない。肉をいただき油をいただき、骨も髭も、果ては臓腑の中身までも、一欠片とて無駄にはされない。生命と引き換えの畏れと覚悟があるから、鯨は夷様(えびすさま)と呼ばれ大事に扱われる。その挿話のリアリティひとつとっても、まだ環境問題の概念なんてなかった時代の人間が、いかに当たり前に自然と調和して共生していたかが伝わってくる。
そして、この作家の作品はいつでもそうなのだが、歴史小説なのに登場人物がわれわれ現代人にも身近な存在に感じられ、彼らのストレスが自分にも心当たりがあることを思い出させられるのだ。時代設定は江戸期でも、ここにいるのはわたしやあなたなのである。どこをどう読んだら「人間について訴えるところがない」だなんてつまらない感想が出てくるのか。むしろ人間臭すぎるほどなのに。
直木賞なんて取れなくても、城を噛み、国を蹴り、今度はクジラを獲った。毎回同じ締めなのはわかっているが、いつもどおりにエールを送りたい。 オーレ、伊東潤