細見 周 / 熊取六人組

【 細見 周 / 熊取六人組 反原発を貫く研究者たち / 岩波書店 (224P) ・ 2013年 3月(130727-0803) 】



・内容
 いわゆる御用学者とは対照的に、長年、「原発の安全性を問う」立場で研究を続ける研究者たちがいる。京都大学原子炉実験所の今中哲二・海老澤徹・川野眞治・小出裕章・小林圭二・瀬尾健 ― 「熊取六人組」である。彼らの反原発を貫く信念と誠実な生き方、魅力的な素顔を、綿密な取材をもとに綴る渾身のノンフィクション。


          


福島第一原発事故以来、目にする機会の増えた小出裕章、今中哲二両氏の名。今や‘反原発のエース格’ともいえそうなお二人が所属するのは京都大学原子炉実験所。その中の有志六人が集った「原子力安全研究グループ」の異名が大阪南部の実験所所在地に由来する「熊取六人組」だ。
安保闘争世代の四人(海老澤、小林、川野、瀬尾)と全共闘世代の二人(小出、今中)。専門はそれぞれ違う六人だが、学生運動や社会運動への関与が共通点にあるのだった。東大ではなく京大にこういうグループが存在する訳も面白い。
70年代の四国電力伊方原発設置許可差し止め訴訟に始まるグループの活動歴は四十年の長きにわたる。この間、多くの原発裁判や事故調査に携わって、一貫して原発の危険性を警告、発信してきたにもかかわらず、彼らの主張はことごとく黙殺されてフクシマに至ったのだった。

 また別の日には、今中自身が言うところの“情緒不安定”は、さらに顕著になっていた。
 「原発のせいで、津波で被災した人たちのところへ応援に行けないでしょ。その人たちは、原発事故の間接的な被害者ですよ。避難した先で亡くなったお年寄りも、ある意味で犠牲者なんです。そりゃ、直接の原因は放射能じゃない。でも、そういう視点で見ないとね」と言って、目頭を拭う。


彼らとて、始めから反原発の立場にいたわけではない。これからは原子力の時代。華々しく喧伝される新時代のエネルギー研究に夢を抱いて大学に学び、当時の花形産業に飛びこんできたのだ。その彼らが、大多数の研究者と道を別って反原発に転身したのはなぜか。
フクシマを経験した今となってみれば、電力会社や行政の片棒担ぎをしてきた学者は批判対象でしかありえないのだが、しかし、そもそも原子力工学のような学部は日本の原発を支えるために新設されたのであって、そこで学んだ者が‘原子力ムラ’の一員として肯定的に働くのは当然のことで、むしろこの六人組の感性が身軽でユニークであったように思える。
水俣病と生涯向き合った原田正純は「何のための医学か」を常に問い続けた。原子力研究は工学、物理、化学、電気、生物学、地学、他の分野にも広くまたがる複雑な体系の学問であるにもかかわらず、原発研究者は実験室に閉じこもったまま、いわゆる‘専門バカ’の揶揄に気づくこともない学者ばかりだというところにも、フクシマと水俣の類似を見る。



今になってメディアに正論として書かれているようなことは、ずっと前からこの人たちが繰り返し言ってきたことなのだとあらためて気づく。
六人組は推進派が吹聴する安全神話をことごとく論破してきた。しかし、司法の場においてさえ、「原発の安全性は保証されていない」という主張が「危険性は立証されていない」という結論にすり替えられてしまう。科学についての議論が、非科学的な非論理に歪められてまかり通ってしまう。
結局、警鐘は無視され警告は届かず、彼らが危惧していた大事故が起きてしまった。いかに良心的に健全で正当な告発をしてきたのだとしても、熊取六人組の四十年は敗北の歴史でもあるのは事実だ。
しかし、推進派もまたあの事故で敗れたのである。事故発生後の彼らの無責任で軽率な言動により、被爆しなくてもすんだはずの何万人もが、むざむざとホットスポット放射能を浴びる結果となった。現在の状況を鑑みれば、事故というより人災の側面の方が大きいのではないか。

 話がここまで来たとき、小出の表情が少し苦しそうに歪んだ。そして……。
 「原子力という場に携わってきた人間の一人として、今回の事故を防げなかった責任が私にもあると思います。皆さん、ほんとうに申し訳ありませんでした。ごめんなさい」
 そういうと、会場にいる人びとに向かって頭を垂れ、謝った。


放射能汚染に立ち向かい、耐えていく時代になってしまった。フクシマの現実を目の当たりにして反省を口にする六人それぞれの言葉は重い。(真摯な反省の弁はいまだに反対側からは聞こえてこない)
批判のチェック機能が働かない閉鎖的なアカデミズムに安穏とすることを良しとしなかった六人は、実験所の外に出て積極的に社会と関わろうとし、市民運動の現場で学ぶことも多かったという。では、その提言に真剣に耳を傾けようとしなかったわれわれ社会の態度はどうだったか。
自分に加えられる危害を、罪のない人に加えられるいわれのない危害を、容認するかどうかは「誰かに決めてもらうのではなく、一人ひとりが決めるべきこと」と小出は話す。賢くなりましょうよ、もっと想像力を働かせましょうよ、というのである。政財界のもっともらしい理屈に動じることのない、反原発の思想信条を育んでいこうということである。
もはや斜陽の原子力産業には優秀な人材が来なくなってきているという。しかし、福島を真に終息させ、他の五十余基を廃炉にするための長い道程に、今後も安全のための科学研究は欠かせない。膨大な放射性廃棄物の処理という課題も手つかずのままである。六人組の志を継ぐ科学者が現れるのを待つのではなく、そういう気運を社会に形成し、下地をつくっていくのもわれわれ世代の宿題だろう。
本書はその生きた‘教科書’となりうる名著だと思う。六人の科学者をバランス良く丁寧に取材していて、それぞれの個性を描き分けつつも、グループとしての一体感は見事に浮き彫りになっている。堅く重い内容ながら爽やかですらあった。本年ベスト、フクシマ以後ベストの一冊。