コニー・ウィリス / 航路 (再読)


三年ぶりの再読。今回は流し読みして三日ぐらいで読んでしまおうと思っていたのに……



【 コニー・ウィリス / 航路 / ハヤカワ文庫SF (上656P、下672P) ・ 2013年 8月(130815-0819) 】


PASSAGE by Connie Willis 2001
訳:大森望



・内容
 マーシー総合病院で、臨死体験者の聞き取り調査を行なっていた認知心理学者のジョアンナは、神経内科医のリチャードから新規プロジェクトへの協力を求められる。NDE(臨死体験)を人為的に発生させ、その時の脳の活動を詳細に記録しようというのだ。しかしその実験にはトラブルが続出し、被験者が不足してしまう。ジョアンナはみずからが被験者となることを申し出るが、彼女が擬似臨死体験でたどり着いた場所は……!?


          


またまたハマった‘航路地獄’。もう展開はわかっているので、ニューロンシナプス発火、側頭葉刺激などの脳神経系の解説や臨死体験のレポート部分など、飛ばせるところは飛ばして読んだものの、やっぱりやみつきになってなかなか本を置けない。今日はここまでと思っても、次の一行を見てしまうと、いつのまにか続きを読み進めていて、気づくとまた一時間経過。テレビ不要、ネット不要、ケータイなんか切っちゃう。メシと風呂以外は『航路』読んでたっていう日が二日。ある意味、熱中症。盆休み中で良かった。その一心不乱ぶりは、自身の臨死体験と例の海難事故との奇妙な符合を調べるのに没頭する主人公、ジョアンナ・ランダーみたいだった(と自分では思う)。
冷静に考えてみると、最新刊『ブラックアウト』『オールクリア』がそうだったように、これも冗長で同じイメージが繰り返されて、「くどい」と感じる部分が多いのも事実。それでも自分にはジャストフィットなのはなぜかと考えながらの再読。

 「で、あなたがブライアリー先生に会いにいったって聞いたから、念のために教えといたほうがいいと思って。うっかりそっちに踏み込まないように」
 踏み込んだどころじゃない。土足で上がりこんで腰を据え、臨死体験について気軽に議論して、天国は死にかけた脳が見せる幻想だとえらそうに演説した。
 キットに電話しなきゃ。どんなにもうしわけないと思ってるかを伝えなきゃ。


認知心理学者のジョアンナは臨死体験(NDE)のメカニズムを解明するために自ら「潜る」(NDEを擬似体験する)。不可逆的な脳死の寸前、機能停止した心肺をジャンプスタートさせようとして分泌される脳内物質を人工投与して経験される超現実的な感覚。ジョアンナは現実にはありえない場所にいたのだが、「そこ」がどこだか知っている気がしてしかたがなかった。なぜ自分はそこに行くのか。潜在意識、記憶、夢を総ざらいして既知感の出どころを探ろうとする。
ここまでで、約三分の一。キーワードは、メタファー、救難信号、それに、“この天と地のあいだにはな、ホレーシオ、哲学など思いもよらぬことがあるのだ”(ハムレット) ―物語は思いもよらぬ展開を見せる。
「この太陽系がまるごと滅びようとも、命を落とすのは一度きりだ」(カーライル) ― そういう死をめぐる考察に、誰かを救おうとして死んでいった無数の人びとの史実が絡まりあい、やがて概念だった死が現実に自分のものとなったとき…… 「そうでしょうとも」とうなずくしかないラストに向かって船は猛進する。



あらためて、「ウィリス話法」は膨大なディテールの積み重ねにあると確認。ヒンデンブルグにウーラという名前の犬が乗ってたとか、日本海軍との珊瑚海海戦で大破した米空母ヨークタウンはわずか三日で復旧してミッドウェーに駆けつけたとか。サーカス会場で流れる「星条旗よ永遠なれ」は事故発生、緊急避難の合図なのだとか、アン・ブロンテの今際の言葉は「シャーロット、勇気を出して…」だったとか(これらはほんのごく一部の例である)。
それらのトリビアが物語の細い伏線としてことごとく巧みに活用されているのは、案外、細部が先にあって、それから大枠が決められていったのではないかとも思うほどだ。はじめからこんなに壮大な物語が構想されていたのではなく、小パーツが組み合わさって全体像が膨らんでいったのではないかと。
読んでいるあいだは忘れていたのだが、これはSFなのである。臨死体験をモチーフにしたタイムトラベルであり、脳内で繰りひろげられる現在過去未来が混在するドラマは、めくるめく異次元へのトリップ感に満ちている。

 「オーケイ」 メイジーは不満たらたらの顔でいった。
 「オーケイ」 リチャードは腕時計に目をやった。一時十分。「マンドレイクとの約束に遅刻だ。だから“まだ行っちゃだめ”も禁止」
 「そんなこというつもりじゃなかったのに」 メイジーは憤然とした。 「グッドラックっていおうと思ってたのに」


物語はジョアンナの記憶をめぐって進む。自分はたしかに‘それ’を知っているはずなのに、どうしても思い出せないという、あの感覚。近づいているのに触れられない、つかめない。物語をここまで長大にしているのは、じりじりするもどかしさだ。
死の真際、走馬灯のように過去がフラッシュバックするというけれど、ジョアンナが体験するのは、最期まであきらめない生命維持活動の暗喩なのだった。血流が滞り、酸素が届かなくなっても、脳は活動を止めようとしない。蘇生をうながすために早鐘が乱打され、火花をぱちぱち散らして信号が絶え間なく送り出される。回路が遮断され、接点が反応しなくなっていても、一縷の望みをかけた営みは最期の最後まで続けられる。
不思議なのは、それがジョアンナの深層で起きている超個人的な特殊な体験であるはずなのに、読んでいると、自分の脳内で起きているような気持ちがしてくることだ。脳の一部が異常に活発になって頭がさえてくるのと同時に、脳の別のどこかはじんわり痺れて思考が鈍くなっていくのを自覚する。二回目なのに同じ感覚を味わう。充分、警戒していたつもりなのに…。これはやはり‘航路地獄’ならぬ‘航路中毒’なのか。
ジョアンナに協力する二人のヒロイン、はかなくけなげで、でもタフに生きているメイジーとキットも忘れられない愛おしい存在。再読して少しも面白くなかったらどうしようと思っていたのだが、まったくの杞憂だった。