コラム・マッキャン / 世界を回せ


今はなきワールドトレードセンター(WTC)屋上で命綱なしでの綱渡りを決行したフィリップ・プティ(Philippe Petit)のドキュメンタリー映画『マン・オン・ワイヤー』を見たのは2009年8月。
プティの伝説的パフォーマンスと9・11をつなぐ作品がいつか書かれるのではないかと思っていたら、とうとう来た!


  ・フィリップ・プティ / マン・オン・ワイヤー(本)

  ・フィリップ・プティ / マン・オン・ワイヤー(映画)



【 コラム・マッキャン / 世界を回せ / 河出書房新社 (上268P、下276P) ・ 2013年 6月(130822-0826) 】


Let the Great World Spin by Colum McCann 2009

訳:小山太一・宮本朋子



・内容
 1974年夏。ニューヨーク。一人の若者が、空に踏み出した。世界貿易センターのツインタワー間で、命綱なしの綱渡り。その奇跡の行動が下界に魔力を及ぼしたかのように、地上では出自も年齢も環境も異なる人々がひそかにつながりはじめる―全米図書賞・国際IMPACダブリン文学賞受賞作。


          


2001年9月11日、静まりかえったマンハッタンの街角では人びとが声を押し殺して呆然と空を見上げていた。その二十七年前にも、街ゆく人びとが足を止め、110階建て、高さ400メートルの摩天楼を仰ぎ見る朝があった。あんなところに人がいる! 前年完成したツインタワー屋上に小さな人影を見つけた誰かが指差して、その回りに人だかりが膨らんでいった。
フランスの大道芸人、当時24歳のフィリップ・プティがWTCツインタワー間を‘歩いた’のは1974年8月7日。その日の前後、ニューヨークに暮らす市井の人々のささやかな営みを、泥沼化したベトナム戦争ウォーターゲート事件など当時の世相を映しながら描いていく。
プティ自身は物語には直接関係はなく、彼の芸当を目撃した登場人物も出てこない。しかし、その小さなニュースは綱渡りとは無関係な人びとの心にも微かな波紋を立てたのだった。

 神様ってのが誰だかあたしは知らないけど、ちかぢか神様に会うことになったら、コーナーに追いつめてほんとのことをゲロさせてやるよ。
 死ぬほどビンタを食らわして、小突きまわして、逃げられないようにしてやるんだ。ダウンしてこっちのことを見上げてきやがったら聞いてやるよ、どうしてあたしをこんな目に遭わせたんだ、どうしてコリーをあんな目に遭わせたんだ、どうしていい人間ばっかり死なせるんだ、ジャズリンはどこよ、どうしてそこに行かせたんだよ、どうしてあたしがあの子にあんなことをするのを放っておいたんだよって。


正直にいうと、これは感想を書くのがすごく難しい。文章が難解なのでも、構成が複雑なのでもない。読みやすいし、総じていえば自分好みの作品で、とても良かったのである。いくつかのグループの出来事がそれぞれに話し手を換えて語られながら、小さな接点が交わりになり、やがて境界が溶けあって重なっていくという具合で、始めより後になればなるほど引きこまれた。
アイルランド人の兄弟、ブロンクスの黒人娼婦、ベトナムで戦死した息子を持つ母親たち、追突事故を起こしながら現場を立ち去った夫婦……、ばらばらに別の場所で生きていた人たちがつながっていく群像劇としてとても良くできている。けして華やかではないけれど、これを輪舞(ロンド)に喩えるなら、宙空の中心点に妖精のごとく浮かんでいるのがWTC上のプティで、「世界を回せ− Let The Great World Spin」というタイトルもうなずけるものになる。



では、何がひっかかっているかというと、全ての登場人物たちに影響力をもっているように印象づけられるコリガンという修道士の存在。アイルランド人兄弟の弟の方なのだが、彼はスラム街で黒人娼婦たちの世話を焼きながら社会奉仕活動をしているという設定。無私無欲、自己犠牲と献身。安アパートに住み、同じシャツを何日も着て、ガタのきたバンを運転して仕事に行く。他の登場人物(ほとんどが女性)がそれぞれに秘めた痛みや悩みを告白しているのに、彼だけは自分語りがなく、他の誰かが語ることで人物造型されている。
現実には社会性のないヒッピー崩れみたいな男なのに、周りにいる女たちはコリガンをひたすら称賛する。「白いニガー」と呼ばれて差別されたアイルランド移民が貧しい黒人女性に施しを与え、頼りにされる。彼を聖者のごとく描くその構図に(もしかしたら、作者はコリガンを地上版のプティ的存在としてもくろんだのだろうか?)、自分はアイルランド出身という著者のセンチメンタルな自意識を感じてしまい、コリガンのパートだけはずっといらいらしながら読んだのだった。カトリックアイルランド人に対する宗教感が自分にはないとはいえ、この作品の中で彼だけが甘やかされた存在に映ったのだった。

 こんなこともあって、ソダーバーグ判事には、あの綱渡りの男の行ないが輝かしい天才の発露に思えたのだった。あの男自身が記念碑なのだ。しかも、見事にニューヨークらしく、空高くに束の間出現する彫像だ。過去を一顧だにしない像。世界貿易センターに赴いて、世界最大のふたつのタワーにロープを渡したのだ。場所もあろうに、あのツインタワーを選んだのだ。ぎらぎらして、全体がガラス張りで、いかにも未来を先取りしたようなあの建物を。


あらためてプティがやったことを思う。あらゆるものにスポンサーがくっついて広告が表示され、予算と収支報告から逃れられない現代では考えられないことだが、1974年のプティの綱渡りは100パーセント自作自演のゲリラ行為だった。したがって、ドラマチックに演出されたビデオも完璧に計算しつくされた構図の写真も残されなかった。テレビカメラは間に合わず、記録はプティの仲間が撮った写真数カットのみなのだ。実際にはこの一時間たらずの空中歩行のために六年もの歳月が費やされ、プティ自身が前夜から徹夜の突貫工事でワイアの設営作業をしたのだった。少し想像力を働かせれば、そもそも60メートルの間隔がある地上400メートルの屋上間にロープを張るのだって容易でない重労働なのはわかるはずだ(それ以前に何トンもの鋼材を屋上まで運ぶのだって)。どのようにロープを張ったのか、その答は本書にもちらりと書いてある。
プティのパフォーマンスは社会的には犯罪でしかなかった(侵入罪、社会紊乱罪、無許可危険行為、etc)。しかし、法や権威には手出しできない「何かしら清潔で崇高なもの」もあるのだった。最後に綱の上を駆け抜けて警官が待ち受ける屋上に‘着地’した彼はその場でただちに逮捕される。そしてどう裁かれたか。その顛末も本書に書かれていて、ちょっと嬉しくなった。
喧噪に包まれた猥雑な街ニューヨーク上空からプティがふりまいた魔法が、名もなき小さな市民でしかなかった人びとにどんな作用をもたらしたのか。人が立ち去ってもその人の魂はそこに存在し続けるのなら、ツインタワーがなくなった空間に今でもプティの魂は浮かんでいて、それが下界に映ることもある。そういうことがあったっていい。そういう物語だったと思う。
不満が目立つような感想になってしまったが、全体としては素晴らしい出来。少々退屈に感じられるパートも読んでいくと思いがけない変化が現れて、思わず座りなおしたりして何度もため息をつかされた。些細な不満はあっても本年ベスト。