中脇初枝 / わたしをみつけて

中脇初枝 / わたしをみつけて / ポプラ社 (257P) ・ 2013年 7月(130827-0829) 】



・内容
 施設で育ち、今は准看護師として働く弥生は、問題がある医師にも異議は唱えない。なぜならやっと得た居場所を失いたくないから― 『きみはいい子』で光をあてた家族の問題に加え、医療現場の問題にも鋭く切り込んでいく。新境地となる書き下ろし長編。


          


昨年の  『きみはいい子』  にはグサグサ刺された。その中脇初枝さんの書き下ろし新刊はやはりポプラ社から。今作も……、― 表現が的確でないのを承知で藤島大さんお得意のフレーズを借用したい― 「血はごぼごぼと噴きこぼれた」のである。病院勤務の女性の静かな物語で、ボクシングやラグビーなんてぜんぜん関係ない。なのに、おおげさにもそういってみたくなる。前作の背筋も凍るような寒々しさをまだ自分の身体が覚えていたので、今作の胸の熱くなり方はちょっと予想外だったのだ。
他人に明かしたことのない事情を抱えて准看護師になった「わたし」の内省と、勤務する病院での日常業務が並行して語られていく。

 心臓は一日、十万拍打つ。看護学校でそのことを習ったときに感動したことを思いだした。
 あれから十四年。わたしはその感動を忘れていた。現場で働いていたら、そんなことをいちいちおぼえてはいられない。そう思いながらも、それは言い訳だとわかっていた。


舞台は『きみはいい子』で描かれていた架空の新興住宅地。ところどころにさりげなく前作のエピソードが置かれていて、「この人は…」「あの子どもが…」と前作がフラッシュバックして街の情景は広まっていく。
物語の大半は病院の場面なのだが、医療現場という背景をはずしてみると、迷える若者と経験を積んだ大人の物語であり、個人と組織の物語であり、上司と部下の職場関係の物語でもある。 
それらの要素をからめた、ずっとコンプレックスに悩んで生きてきた主人公がそれを克服しようとする脱皮と再生の物語、ともいえるかもしれない。



終始、淡々とした一人称独白体の平易な文章が続く。振り返ると短文ばかりで三行以上の長さの文はなかったのではないかと思うほどなのだが、この語りが効く。じわじわと切実に迫ってくるのである。修辞も何もない、勿体つけた文学ちっくな文章とは正反対の、ただ内面をまっすぐ写しただけの文章。これは平易に見えるけれども、実は誰にでも書けるものではないだろう。
「親のいない子どもはこういうものだ」という無責任な空想ではなく、子どもをめぐる問題意識の確かな裏打ちがあってこれが書かれているのはよくわかる。若者が「痛い」と笑いに換えて避けたがる話題を、きちんと「痛み」として堂々と清潔に提示できているのは、著者の技であり業であり、そして大人の芸でもあるのだろう。過去も現在も未来も暗い雲におおわれていると思いこんでいる主人公とは裏腹に、彼女を書いている著者の態度には一点の曇りもなく、自信と責任が伝わってくるから「信頼のおける語り手」としてこの物語を受け容れられるのである。

 「ほんとの自分がどこかにいると思ってる?」
 「え」
 わたしの答を待たず、師長は続けた。 


人格は一つではない。先に読んだ『世界を回せ』の中にそういう一節があったが、この主人公は自分を一つの枠にはめようとして世界を狭めて余計に息苦しくなってしまう。多様な世界は寛容でなければ回らない。ときには自分にも寛容であっていい。患者に頼りにされる看護師でありさえすればいいのに、過去の負い目から、彼女は現在の自分を素直に見つめることができないでいる。
ちょっと出来すぎな感もなきにしもあらずだが、彼女を支え励ます年輩者の存在感が頼もしい。「わたし」に同情し、彼女が救われますようにと祈りながら読んでいたのに、いつしか自分はこの年輩のように振る舞うことができるだろうかという自問が芽ばえて気恥ずかしさを味わう。所詮は他人にすぎないはずの主人公の物語が、どこかの時点で自分の物語に切り替わる奇妙な瞬間があったような気もする。そして、ここには生きるのに不器用な若者のことが書いてあるけれど、これはまぎれもなく大人の仕事なのだと感じさせてくれる。そんな喜びもあって最後は「血がごぼごぼ」しちゃったのである。
彼女のような存在は自分の周りにもいるのではないか。そういう想像力はすべての基点であり起点でもある。