馬場マコト / 従軍歌謡慰問団


8/14放送のNHKスペシャル「従軍作家たちの戦争」は日中・太平洋戦争に報道部員として従軍し〈兵隊・三部作〉を書いた火野葦平を中心に、戦地に派遣された文学者たち、いわゆる‘ペン部隊’の戦争協力を描いたドキュメンタリーだった。
ペン部隊同様に、国家総動員法の旗の下に音楽家たちも動員された。1938年(昭和13)、火野の『麦と兵隊』が一躍ベストセラーになると、すかさず同名のレコードが作られ大ヒットした。歌ったのは東海林太郎だった。



【 馬場マコト / 従軍歌謡慰問団 / 白水社 (238P) ・ 2012年11月(130830-0905) 】



・内容
 藤山一郎東海林太郎など当時の人気歌手を中心に、満洲からインドネシアまで、兵士や住民を慰問するため広大な戦地を訪ね歩いた歌の道のりを時局とともに辿る、戦争のもう一つの姿。


          


資生堂広報部の山名文夫を筆頭に軍部の要求に応じて戦意高揚の広告をつくった男たちを活写した  『戦争と広告』  の馬場マコトさん。今作は広告を軍歌に換えて、再び戦時のムードを再現した力作ノンフィクション。
青い山脈」 「丘を越えて」 「東京ラプソディー」 … 懐メロ番組で歌う姿をかろうじて知っている歌手・藤山一郎(1911−1993)。若々しい朗らかなバリトン。お手本のような発声と清潔な歌唱。自分の記憶にあるのはおそらく60〜70歳代の彼だが、演歌ではないしポップスというのでもない、自分の知らないカテゴリーの歌を歌う、何か面妖なところのある人という印象はあった。
年齢不詳、永遠の青年のようにも見えた藤山一郎の全盛期、彼はどんな歌手でどういう活動をしていたのか。その足跡を、もう一人の戦時の国民的歌手・東海林太郎と、彼らに楽曲を提供した西條八十古関裕而ら作家陣の活動とともに追った本書は、別題をつけるとすれば「戦争と歌」。知らなかったことばかり、驚きの連続で、付せん紙も貼りすぎて用をなさなくなるほどだった。

 不況にあえぐ日本全体が満州に活路を求めた。関東軍は暴走した。古賀政男の人々の心にしみじみと染みるような情緒的な旋律。それは農村の苦しさにあえぎ、都会で失業に苦しむ若者たちの心情だった。それをなんの屈託もないように明るく歌う藤山一郎の歌唱。それは、それでも満州に希望があると信じようとする人々の明かりだった。古賀政男藤山一郎も時代の渦と交差した。


1925年(大正14)にラジオの本放送が始まると、その二年後に日本初のレコード会社・コロムビアが設立された。ビクター、ポリドール、テイチク、キングなどが続いて、昭和初期は音楽産業の黎明期でもあった。1931年、満州事変が勃発すると、各社は競って国策賛美の作品を発表するようになる。初期のレコードというメディアは現在のような娯楽や音楽趣味ではなく、政府当局や報道と協調したプロパガンダの道具として利用されたのだった。   
時局が日米開戦に傾くと、官庁や新聞雑誌が公募した愛国詞や進軍歌が(審査は北原白秋山田耕筰ら)次々とレコード化された。「露営の歌」(作曲は古関裕爾、1937年)はその代表的な一曲である。1939年には一年の間に二十もの軍歌が一般公募から制作され、いずれの募集にも何万もの投稿があったというのだから驚く。
また、マレー沖で海軍が英戦艦プリンス・オブ・ウェールズを撃沈すると、その数時間後にはラジオのニュース番組内でその事件を歌にして生放送で流すという「ニュース歌謡」まで生まれたのだった。



東京音楽学校で声楽を学んでいた藤山一郎は、譜面を初見してその場で一発録りの歌入れができる歌い手として重宝された。そもそも歌謡曲というジャンルはまだなく、歌手といえば芸人か浪曲師上がりしかいなかった時代。古賀政男の「影を慕いて」や「酒は涙かため息か」はまだ学生だった一郎が(校則を破って)アルバイトとして歌った‘歌謡小唄’なのだった。
人気歌手となった藤山一郎も戦局の拡大とともに軍歌を歌い、内閣情報局の依頼(徴用)により内外の戦地慰問に駆り出されるようになっていった。
「露営の歌」 「断じて勝つぞ」 「海ゆかば」(万葉集大伴家持長歌に曲をつけたもの) 「若鷲の歌」。たとえば映画『二十四の瞳』の中にも使われていたこれらの軍歌は、日本民族の心根を揺さぶる曲調と歌詞がおごられていて、作品としてなるほど良くできているものだと感心してしまう。戦時中のサウンドトラックとして連日こんな曲ばかり耳にしていたら、自分だって好戦的愛国的な気分になるかもしれない。いかに大衆心理を扇動する空気が醸成されていったか。これらの歌が祖国のためと信じて遠い戦地に赴いた兵士たちにどれほど熱狂的に迎えられたか。はるばる海を渡ってたどり着いた慰問先で東海林太郎藤山一郎も涙ながらに絶唱したのである。

 一九三四年の「国境の町」以来、「北進の歌う御者」として、数々の日中戦争を歌いつづけてきた東海林太郎だったが、津国戦線の泥沼化、深刻化とともに、一九四四年からは新曲の吹き込みの機会さえなくなった。戦場は慰問団を受け入れる余裕すらなく、太郎の「皇軍慰問団長」の役も途絶えた。それでも太郎は空襲がつづくなか、音楽挺身隊員として律儀に国内の慰問をつづけていた。


軍歌を作ったり歌ったりした者たちはみな戦争協力者であり戦犯ではないかという批判もあるらしい。しかし、芸能慰問団の中には無名の新人芸人も数多く含まれていた。自分の持ち歌もないのに東海林太郎の前座歌手としてステージに上がっていた若き日の森光子のように。
本書には登場しないが、子役俳優として十歳そこそこではるばるサイパンアッツ島にまで派遣されたという中村メイコの場合はどうなのか(梯久美子『昭和二十年夏、子どもたちが見た日本』)。吉本興業の「わらわし隊」はどうなのか。公募に応じて軍歌を作詞した民間人の戦争協力はどうなのか。
戦犯か否かの線なんて引けないのであり、そういう巨大なエネルギーに渦巻かれた狂熱状態が戦争状態ということなのである。ひとたび大きなうねりが来ればわれわれは一気に流される民族であることをあらためて肝に銘じたいが、現憲法はそうならないためにあるはずである。

藤山一郎インドネシア終戦を迎えたが(戦争末期には彼は軍属の中佐として赴任していた)、帰国できたのは一年後だった。自ら手拍子を拍ちながら爽やかに歌う姿からは想像できないが、戦後、歌手活動を再開したときの彼の苦渋と心痛は察するにあまりある。(火野葦平が自殺したと聞いたとき、彼は何を思っただろう?)
歌を通じた戦史、「歌う兵士」が本書のテーマだが、時代を反射して一つの歌が生まれ広まり、大衆を洗脳し扇動していく、そのスリリングな瞬間に立ち会わせてもくれる。歌に国家の命運が託され、兵士の命が刻みこまれ、帝国臣民の総意が結集される。そんなのは幻想にすぎないのに、それが状況によっては美しく見えることがあるらしいのは困ったことである。