ダニエル・キイス / アルジャーノンに花束を


ダニエル・キイス氏が亡くなったので、‘夏の課題図書’として約二十年ぶりに再読したのだが……


ダニエル・キイス / アルジャーノンに花束を / 早川書房 ダニエル・キイス文庫(485P)・1999年 (140812−816) 】

FLOWERS FOR ALGERNON by Daniel Keyes 1959
訳:小尾芙佐


・内容
 32歳になっても幼児の知能しかないパン屋の店員チャーリイ・ゴードン。そんな彼に、夢のような話が舞いこんだ。大学の偉い先生が頭をよくしてくれるというのだ。この申し出にとびついた彼は、白ネズミのアルジャーノンを競争相手に、連日検査を受けることに。やがて手術により、チャーリイは天才に変貌したが…超知能を手に入れた青年の愛と憎しみ、喜びと孤独を通して人間の心の真実に迫り、全世界が涙した現代のバイブル。

          


初めて読んだときの感動は欠片もなかった。読後感があまりに変わっていて、これはYA作品だっただろうか、どこか肝心なところを読み落としたのではないかと戸惑ったくらい。途中から、苦痛というほどではないにしても楽しくなくて、(結末がわかっていることもあり)早く片づけてしまいたいという気持ちになってしまった。
「孤独な天才」と「仲間がいる白痴」、どっちがいい?のあまりに単純な二者択一。どうにもアメリカ的な自作自演の一方通行のストーリー進行が肌に(目に)合わない。どう考えたって治療すべきはチャーリイではなく彼の母親ローズのおつむの方で、そうすればすべてはオーライではないか、なんて思ってしまうと物語すべてが茶番に見えてきて、いらいらしながら読んだ。『こちらあみ子』の爪の垢を煎じて飲ませたいとまで思った。


発達障がいと超天才の両極端を主人公は体験するわけだが、書く側は知性側に立っていて、読み手はそれに従うしかない。読者はチャーリイより自分はマシだと心のどこかに優越感を植えつけられて、容易に主人公に感情移入できないようになっている。
これが書かれた当時は脳科学も精神医学も現在ほど進歩していなかったかもしれない。人権意識や虐待への社会的関心も低かっただろう。それにしても精神遅滞、発達障がいへの画一的な決めつけが不快だ。優れたSFなら設定はどうあれ人間という種への鋭い洞察を含んでいて、本質的には優しいものなのに。
天才になったチャーリイは学会の権威筋を揶揄したりはするものの、(自身が権威的な超天才なのに)けして自分の不条理を社会問題化してとらえることはなく、あくまで個人の幸・不幸の範囲でしか考えられない。ただチャーリイひとりが良くなったり悪くなったりしているだけで、彼を取り巻く環境にはまったく変化がない不自然。実は「天才だが孤独」なのではなく、「天才だが未熟なまま」なのであり、未熟という点においてはチヤーリイ以外のすべての登場人物も同類なのであった。サヴァンでもある自閉症者の繊細な感情の揺れを見事にすくい取って文章化したエリザベス・ムーン『くらやみの速さはどれくらい』との最大のちがいはそこにある。  

かねがね疑いを抱いていたのだが、あのチャーリイはやはり去ってはいなかったのである。人間の心の中にあるものは決して消えてはしまわないのだ。手術は、彼を、教育と文化の化粧板でおおいはしたが、感情の面で、彼はまだそこにいて― 眺めながら待っていたのである。


R.A.ラファティの短編集『昔には帰れない』のなかに、人類史のいかなる時代においても必ずある決まった割合で障がい者が生まれてくるのは(どんなに医学が発達しても障がい者出生率は変わらない)、壊滅的な天変地異や大災害に備えて神がそのように差配しているからであり、健常者の生存率が低い環境下では逆に彼らが生き延びる可能性が高い、という滑稽だが鋭い一篇があった。
自分とはちがう他者を(自分より劣った人間としてではなく)自分とはちがった特質を持つ者として描いたラファティのSFマインドと慧眼を大いに支持したいのだが、本作では人間の幸福を性能の優劣、知性至上主義でしか想像させない。
また、機能の一部に欠損があると他の部分が発達して補完するということが人間の肉体にはよくあるのに、チャーリイが始めからマウス並みの存在に貶められているのにも納得がいかない。  


昨夜(8/17)放送されたNHKドキュメンタリー 『君が僕の息子について教えてくれたこと』 は、七年前に日本の自閉症児が書いたエッセーがいま世界中で読まれていて、この本によって、意思疎通できない子どもの扱いに悩んでいた親たちが子どもの気持ちを理解しはじめた様子を伝える、素晴らしい内容だった。(一例としてニューヨークに住む33歳の重度の自閉症児とその両親が登場したのには、自分の‘カラース’の力を感じた) 自閉症の少年が綴った一冊の本が、これまでどんな先端医療も解明できなかった鍵を開けるかもしれない奇跡。この物語についてならいくらでも書けそうだが、テーマが違うので抑える。
放送を見ていて、いくら天才とはいえチャーリイごときにこの世の複雑さ、多様さはけして理解できまいと思ったのである。二十年も前の初読時と180度ちがう感想を持ったということは、自分が退行しているのかもしれない。でも、そういう不思議こそが面白いのであって、ダニエル・キイスはそんなことを見越してこれを書いたのかもしれない、とまとめてみる。
なんでも再読すれば良いってもんじゃないのを痛感。