レイ・ブラッドベリ / 華氏451度[新訳版]


再読の流れでもう一冊。
自分的に「再読」というと、まっ先に思い浮かぶのは『高慢と偏見』である。しばらく離れているつもりだったのに、困ったことにまた新訳が出た。小山太一による『自負と偏見』(新潮文庫)である。


特に目当てがあるわけではなくふらりと寄った本屋の文庫コーナー。無視を決めこんでいたのに実物を前にすると、どんなものかと手に取ってしまうものである。
「ハロー、久しぶりね!待ってたのよ。また読んでくれるんでしょ?」 「いや、その… ちょっと今日は先約があってね」 目を合わせないようにしてその場を離れようとすると、「どうして…?もうあたしに飽きたの? そう、あなた変わったのね」 と背中に冷たいリジー(キーラ・ナイトレイ)の声が突き刺さる。 だって君にはあの偏屈なダーシー卿がいるじゃないか!と怒鳴りたいのをぐっとこらえて移動すると…… ああ、なんということか、そこにはブラッドベリの『華氏451度』新訳版が!
ブラッドベリジェイン・オースティンか、それが問題だ… 二冊のあいだを徘徊すること三十分。冷房が効いているのに汗だくだった。本屋で不審者を演じるのは慣れている。
ジーごめん。君のことはもう充分すぎるほどよく知っている(つまり飽きた)。読みたい本がたくさんあるんだよ。他のが読めなくなっちゃうから今回だけは勘弁しておくれ!


レイ・ブラッドベリ / 華氏451度[新訳版] / ハヤカワ文庫SF(299P)・2014年6月 (140819−822) 】

FAHRENHEIT 451 by Ray Bradbury 1953
訳:伊藤典夫


・内容
 華氏451度─ この温度で書物の紙は引火し、そして燃える。451と刻印されたヘルメットをかぶり、昇火器の炎で隠匿されていた書物を焼き尽くす男たち。モンターグも自らの仕事に誇りを持つ、そうした昇火士(ファイアマン)のひとりだった。だがある晩、風変わりな少女とであってから、彼の人生は劇的に変わってゆく……本が忌むべき禁制品となった未来を舞台に、SF界きっての抒情詩人が現代文明を鋭く風刺した不朽の名作、新訳で登場!


     


長らく宇野利泰の訳版で親しまれてきたハヤカワ文庫の『華氏451度』が伊藤典夫・訳で衣替えした。
‘原書集め五千冊’の伊藤典夫さんは1942年、浜松生まれ。盟友・浅倉久志氏と出会ったのもここ浜松である。読書ブログ的には、浅倉久志ティプトリー伊藤典夫ブラッドベリを並べる絶好の機会、これを逃すようではSF者の沽券に関わるというものだろう。 
ここ数年、ハヤカワ文庫のブラッドベリは新訳または新装版が毎年一冊はリリースされている(たぶん来年は『よろこびの機械』が出ると予想)。それをコンプリートして書棚のブラッドベリ・コーナーを殿堂にする。聡明なるリジー・ベネット嬢ならそんな男のロマンをきっと理解してくれるだろう。
高慢と偏見』の感想をまた書くのは面倒くさいという気持ちがほんのちょこっとだけあったのも正直に告白しておく。

 モンターグは苦労して、もう一度、肝に銘じた。これはおれが川へ逃げる姿を追うドラマの一場面などではない。これは現実に、自分の目で一手一手目撃している、おれ自身のチェス・ゲームだ。


ところどころで旧版と比べながら読み進めた。いくつかの固有名詞が変わっているのはすぐ気づく。「発火士」→「昇火士」、「海の貝(イヤーフォン)」→「巻貝」、「機械シェパード」→「機械猟犬」、etc…
特に新訳の方が良くなっていると思われたのは、中盤以降で主人公モンターグに手を貸す二人の賢老フェーバーとグレンジャーの語り口。旧版はやや硬く、ぎくしゃくとして手こずっている感じがうかがえるのに対し、新版はスマートで、本を知らないモンターグ(=われわれ読者)に噛み含めるように諭す年長者の落ち着いた語調が伝わってくる。ベテラン翻訳者の老練な技術がぞんぶんに発揮されていていると思う。
主人公のモノローグが多い前半より、特に「二千万のモンターグが走る」以降の終盤は、幻視者ブラッドベリの暗喩に次ぐ暗喩、映像的イメージの飛躍と増殖が繰り返される。これに翻訳者が伴走するには原作者のイメージをどこまで共有できるかに懸かっていたはずだが、ブラッドベリの意図を完全に咀嚼した訳文からは、この古典に自ら新たな生命力を吹きこむ歓びと、SF者の自信と矜持が充ち満ちていて見事である。


ちょっと脱線するが……(『猫のゆりかご』も伊藤さんの訳ということで)
またしても‘カラース’を発動してしまった。8/20(水)、その日は半休を取って午後からエスパルスの応援に清水まで行ってきたのだが、夜遅く帰宅して新聞を見ると、その日の昼間に映画「華氏451」が放送されていたのだ!  ※映画タイトルは「度」が省かれている
監督はフランソワ・トリュフォー。撮影ニコラス・ローグジュリー・クリスティ(ドクトルジバゴの)が出ているなんて、それだけで生ツバものだ。1966年の作品だが、いったいどういう映像なのだろう? もし事前に放送を知っていて録画鑑賞していれば、このブログ記事はよりいっそう充実したものになったであろう。
「発動した」なんて大仰かもしれない、実際には見逃したのだから。そこは自分のカラースのハンパさを笑うしかない。しかし、前日読み始めた名作SFの映画化作品が、まさに同じタイミングで放送されるなんて、たんなる偶然だろうか? この8月20日に『華氏451度』を読んでいて、平日午後1時からの放送も観た人がこの日本に何人いるだろう? 誰が何と言おうと「自分は持ってる」と思いながら、その晩は幸福な眠りに就いたのである。
(何年かしてまた『451』の改訂版が出たときに、あの本屋でジュリー・クリスティに「ハロー」とささやきかけられて、わたしは強烈なデジャブに襲われるのにちがいない。なんと恐ろしいことだろう! そんな確定未来をも誘発する魔力をわたしのカラースは秘めているのだ!)

われわれがただひとつ頭に叩きこんでおかねばならないのは、われわれは決して重要人物などではないということだ。知識をひけらかしてはならない。他人よりすぐれているなどと思ってはならない。われわれは本のほこりよけのカバーにすぎない、それ以上の意味はないのだからな。


恥ずかしながら「訳者あとがき」に、トリュフォーの映画のこともちゃんと書いてあった…… さすがは伊藤典夫である。すべてはお見通し、というわけだ。トリュフォーは当初『火星年代記』の映画化を(!)企画していたものの、ブラッドベリの許可が得られなかったのだそうだ。
(たったいま気づいたのだが、もしかしたらわたしの方が伊藤氏のカラースに巻きこまれているのか?)

アメリカ全土で吹き荒れていたマッカーシズムへの強い反発が背景にあるとされる、ブラッドベリ1953年の作品。現代なら電子書籍があるから、いくら紙の書物を焼いたところで本がなくなるなんてありえないとか、そんなことではない。何が管理社会をを招来し、全体主義へと傾倒させるのか、六十年前のこの小説は正確に警告している。SFなのにディテールは曖昧だし、ストーリーも強引なところがある。だが、それゆえに真理を広くカバーしていて、けして焦点をはずすことはないのである。
伊藤さんの「あとがき」は書物弾圧と焚書に関して「アンネの日記事件」を一例として挙げているが、「はだしのゲン」の自主回収や予算を理由とした文化活動への助成金カットなども同じ流れにあると思われる。
もっと広く見渡すなら、最近の集中豪雨の原因として急に流布されている「バックビルディング現象」という単語にも同じ匂いを嗅ぐことができる。かつての日本人なら、たとえそれが自分たちに大きな被害をもたらすものだったとしても、自然現象に対してもっと気の利いた和名をつけていたはずである。それが‘美しい日本の伝統’の一つだったはずなのに、「バックビルディング現象」とは知恵のひとしずくもしぼっていないではないか。バカの一つ覚えに「グローバルに、セキュアに、戦略的にスピード感をもって」と喋ってる連中も同じである。
本や芸術に対する感性の劣化が、この社会に言葉の扱いがぞんざいな、教養のない人物をのさばらせている。すべての読書家、すべてのSF者は語り部であり、未来の伝承者たる資格を持つ。絶えず読み、書き、記憶し、語り継ぐ。生きるとは、頭の中に図書館を持とうとすることだ。自分の脳こそは最高級のハードディスクなのだと信じて、今日も本を読もうではないか。