尾崎真理子 / ひみつの王国 ― 評伝 石井桃子


【 尾崎真理子 / ひみつの王国 ― 評伝 石井桃子 / 新潮社(575P)・2014年6月(140922−0927) 】


・内容
 この人がいなかったら、日本の「子どもの本」はどうなっていただろう―。『ノンちゃん雲に乗る』『クマのプーさん』など、作家として翻訳者として編集者として、あふれる才能のすべてを「子ども時代の幸福」に捧げた百一年の稀有な生涯。自ら触れることの少なかった戦前戦中の活動や私生活についても、二百時間に及ぶ石井へのロングインタビューと書簡をもとに描き出す。児童文学の巨星の初の評伝。


     

(これだけ付箋をつけてしまうと、どこがポイントなのかさっぱりわからない)


1994年、読売新聞文化部記者だった尾崎真理子さんは、八十代にして自身初となる一般小説『幻の朱い実』を発表した石井桃子を取材した。以後、断続的に石井邸を訪ねて取材を続け、2002年には軽井沢の山荘にて長時間のインタビューをすることができた。その後2008年に石井は百一年の生涯を閉じる。尾崎さんは関係者への取材と資料調査を丹念に続け、今年やっと二十年がかりの労作を上梓した。
クマのプーさん』『ピーターラビット』をはじめ数々の名作童話を戦後日本に紹介した翻訳者。『ノンちゃん雲に乗る』の作者。世間一般にはわが国の児童文学界最大の功労者としてその存在を知られる石井桃子(1907-2008)。尾崎さんも幼少期から石井の本に親しんで育った世代だ。あらためてその母親のような、恩師のような、憧れの存在の一生を書こうとするとき、石井桃子という人物はなかなか手強い相手だったようだ。

だが、実は戦場への手紙という形式を取って、第一次大戦中に生み出されていた世界的な名作がもう一つある。そして、その作品の方が『ノンちゃん』に、より直接的な影響を与えたと私は推察するに至った。石井が一九七〇年代になって初めて日本に紹介したその作品については、追って詳しく述べたい。


明治時代に生まれ、戦中、戦後の動乱期を生き抜いて、この平成を二十年まで生きた人。子どもの本に多くを捧げた人生ではあるが、戦争をはさんで一世紀に及んだ生涯は児童書一筋という言葉で説明がつくほど単純なものではなかった。石井は「子どもがおもしろいと思うかどうかがすべて」だとして作品の分析研究を嫌ったし、晩年ともなれば語りたがらない過去も多かった。
謎の部分があれば探りたくなるもの。尾崎さんは『幻の朱い実』を読み解いて、登場人物のモデルらしき石井の親友を探した。また、石井が空襲を逃れて疎開していた宮城県の農場(のちに「ノンちゃん牧場」と呼ばれた)を訪れて石井に叱られたりした。そうした過去の私生活への深入りが必要だったか、自分には判断つきかねるのだが、生前の石井が公言していた事実だけをもって本書を構成することも可能だったのではないかと思われる。個人史の空白部分を埋めようとする熱意は評伝を正確で厚いものにするが、一冊の読み物としては必ずしも必要ではないことだってあるだろう。


評伝作者が第一に気にするのは、世間の評判や売れ行きではなく、本人に認めてもらえるかどうかではないだろうか。ましてや取材という形ではあれ、生前の少なくない時間を共有し、その人の実生活に触れ生の言葉と表情を体感として知っている場合には、なおさらその当人による評価を知るのは嬉しくもあり、同時に怖いことでもあるだろう。
本評伝は石井桃子が存命だったなら、必ず彼女の承認を得てから発表されたはずである。しかし、その前に石井は逝ってしまった。知りすぎた女は悲しみを隠して「石井さんなら何て言うだろう」という胸のつっかえ棒を取り除けるため、膨大な書簡や関係者の証言から裏を取った事実を列挙していく。そのために石井桃子へのリスペクトがいささかでも削がれたわけではないが、その部分にエネルギーが余計に配分されてしまった印象がある。結果、石井桃子についての本なのにファンタジーが足りないのは残念しごく。憧れの人への想いはもっとストレートにぶつけてもいいのでは?などと無責任なことを考えもしたのだが、そんなことは出来ようもない。相手は雲上の人、あの石井桃子なのだ。
幼い頃に大好きだった本の向こうにいつもいた人の実像に迫ろうとする作業は楽しいばかりではなかったはずだ。本書は石井桃子伝だが、自分は畏れ多いことをしているのではないかという迷いや、最終判断を委ねられた責任の重さと戦い続けた著者の葛藤の軌跡でもある。

 ふと、居間の奥を見上げると、部屋の梁には美智子皇后と石井が肩を寄せ合うように微笑む、二〇〇二年二月に荻窪の自宅で撮影されたカラー写真が額に入れて掲げてあり、胸を衝かれた。まだ昭和だった頃、「私は勲章のようなものはもらいたくない」と、石井が口にするのを聞いた人もいる。複雑な思いを越え、子どもの本の比類ない理解者である美智子皇后への思いは、こんなにも深かった……。


長い年譜を遡っていけば、戦時体制下の1940年に『クマのプーさん』が、それも岩波書店から出ていたことに驚くのだが、石井がミルンの原書に出会ったのはそれよりさらに七年も前、犬養毅五・一五事件で暗殺された首相)の私邸だった。そこから石は転がり始めるのだが、この運命的な始点がなければ石井桃子の後年の活躍のみならず、この国の多くの子どもと家庭から笑顔は忘れられたままだったかもしれないのである。
石井桃子の本当の秘密は、どうして「プー語」のような子どもの感性に寄りそった日本語訳を生み出せたのかにある。「わたしのなかの子ども性が物語を要求する」 「子どもの本は目に見えるように書く」 「大人になってからのあなたを支えるのは、子ども時代のあなた」 「翻訳は演奏家の仕事のようなもの」― 彼女の言葉から児童書への想いはうかがえるのだが、この部分をこそメインテーマとして扱ってほしかったというのが一番の感想。その点で、エリナー・ファージョン、ビクトリアス・ポター、ウィラ・キャザーとの共通性を探った第六章「家庭文庫とひみつの書斎」はとても興味深く読んだ。(石井の翻訳についてはすでに‘石井桃子論’や‘児童文学論’として書かれているのかもしれないし、石井の遺したエッセー等にも書かれているのかもしれない)
菊池寛吉野源三郎のもとで編集員を務めた当時珍しかった大卒女性は、岩波の「少年文庫」と「子どもの本」を手がけ、戦後も独身のまま自立していく。石井桃子は現代女子のさきがけのような存在でもあったのだが、同じ女性だからこそ尾崎さんに打ち明けられたことも多かったはずだ…と、いま考えていてはたと気づいたのだが、はたして男性記者相手だったなら石井はここまで胸中を明かしただろうか。やはりこれは尾崎さんの果敢な大健闘の記録なのだという思いが増す。(個人的な小さな不満はさておき)戦前戦中の昭和文壇史、戦後の児童書普及運動、六十年代から八十年代の子どもの本の黄金期を伝える貴重な記録でもあり、力作であることはまちがいない。『パンとペン』と並べておける一冊である。

『ムギと王さま』すら読んでないが、ファージョン『リンゴ畑のマーティン・ピピン』は必ず読みたい。