アゴタ・クリストフ / 悪童日記


悪童日記』三部作を読んだ。映画鑑賞に合わせて読むつもりでいたのだが、浜松のミニシアターに来るのは来年なので先に読んでしまった。


アゴタ・クリストフ / 悪童日記 / ハヤカワepi文庫(301P)・2001年(141202−1207) 】

LE GRAND CAHIER by Agota Kristof 1986
訳:堀茂樹


・内容
 戦争が激しさを増し、双子の「ぼくら」は、小さな町に住むおばあちゃんのもとへ疎開した。その日から、ぼくらの過酷な日々が始まった。人間の醜さや哀しさ、世の不条理―非情な現実を目にするたびに、ぼくらはそれを克明に日記にしるす。戦争が暗い影を落とすなか、ぼくらはしたたかに生き抜いていく。人間の真実をえぐる圧倒的筆力で読書界に感動の嵐を巻き起こした、ハンガリー生まれの女性亡命作家の衝撃の処女作。


     


舞台は第二次大戦時のドイツとソ連に挟まれた東欧の小国。映画予告編や解説文から暗い陰惨な物語を予想していたのだが、意外に読み心地は悪くなかった(良かったわけではない)。国境近くにある祖母の家に疎開した双子の少年が、戦争に巻きこまれ情勢に翻弄される大人たちを出し抜いて特異な成長を遂げる。
外見は早熟で残忍な「アンファンテリブル(恐るべき子どもたち)」の物語。子どもは純真無垢なものというこちらの思いこみを覆す少年の不気味な生態が日記形式で綴られているのだが、たくましく、ふてぶてしく生きざるを得なかった戦火の子どもたち、特に身寄りを亡くした孤児たちの姿は、これまでにも多くの作品に描かれてきたから、ことさらに驚くほどのものでもない。
ルールのない、何でもありの状況下の子どもにとっては、戦場でさえ‘遊び場’のようなものになってしまうのかもしれない。年端のいかない子どもが大人びた口調で喋るのは滑稽で不快なものだが、学校に行かず未成年者の自覚を持たない彼らにとって、それは自然なことであり、精神の歪形と決めつけるのは早計かもしれない。


祖母に「牝犬の子めが」と罵倒される双子の二人はまさしく一心同体で、常に行動を共にしている。肉体を鍛え、精神を冷たく鍛えるために、乞食の練習をし、不具者になる練習をし、大人たちから金を巻き上げる方法を独学で身につけていく。
この作品の面白さは、二人で一冊の日記帳に書いているという点で、固有名詞を隠して「ぼくら」を一人称としている。二人なのに人格は一つ。それぞれの個性や意見の違いは周到に排除され、「事実の忠実な描写」に徹して感情は書かないというルールで記されていて、二重人格性はまったくない。
もし、いっさいの感情を取り去って日常を記録したなら、われわれの日常もこれと似た殺伐としたものになるのではないかと思わされる。しかし、見たもの聞いたものだけを記録するために自分の目や耳を単純なフィルターとして機能させようとしても、それらは完全に自我から自由な装置たりうるだろうか? 特異な環境で特殊な才能を身につけた子どもたちという錯覚をさせられているのではないかとの疑いを拭えないまま読んでいった。
 

 「もっと、もっと、おばあちゃん! ほら見て、聖書に書かれているとおり、ぼくら、もう一方の頬も差し出すよ。こっちの頬もぶって、おばあちゃん」
 おばあちゃんは言い返してくる。
 「おまえたちなんか、その聖書だの頬だのといっしょに、悪魔に攫われてしまえ!」


続編の二冊、『二人の証拠』と『第三の嘘』は一作目のラストシーンから後の二人(固有名詞が与えられている)の人生が明かされる。祖母の家にとどまったリュカと、国境を越えたクラウスのそれぞれの後日談である。
生き別れた兄弟がどんな形で再会を果たすのか期待して読んでいったのだが、二人の回想は食い違い、記憶はすれ違う。名前が入れ替わったり、亡くなっていたはずの両親が生きていたり、さらには兄弟の存在すら否定したりと、あの『悪童日記』は何だったのか?という内容で混乱させられる。
少年が記していたと覚しき古いテキストだけが実在していて、そこに書かれていることが事実であったなら、互いの存在を否認することが自己防衛だったのかもしれない。しかし、共通の登場人物などからこちらが知っている彼らの過去と微妙に符合する部分もあるから、やはりこの続篇の記述にも何らかの意図的操作が行われているに違いないと考えざるをえない。


強烈な個性を発揮した二人が生まれついての本物の「悪童」であったなら、終戦後の行く末はおのずと知れよう。だが成人後、リュカは書店を買い取って自分に似た境遇の子どもを我が子同然に愛情を注いで育てようとしていたし、クラウスは異国で執筆作業を続けていた。
この二人が本当に一心同体の双子であったのなら、個々に別れて生きることが可能だったのかと思うと、再び『悪童日記』のあまりに唐突な最後に立ち戻らねばならないし、なぜあのテキストが書かれたのかを再考せざるを得なくなる。そして、少年が感情を捨てねばならなかった理由を思い巡らすことになるのだ。
戦争の恐怖と家族離散の不安の中で彼、もしくは彼らは「非人間性」を自らに課さねばならなかったのではないか。孤独と絶望に耐えるために、もう一人の自分(自分たち)を必要としたのではないか。
何一つとして確証はないのだが、時間とともに記憶はぼやけていくし、一つの事実が二人の記憶の中で違うものに変質して理解されなおすこともあるだろう。戦争は国も民族も、家族も友人関係も引き裂いた。かつて固く結びついていた兄弟さえ分断したかもしれない。そのような事実は実際に無数にあったのだし、実在の怪しさも含め、この二人には著者の失われた祖国観の象徴的なある部分が投影されていたのかもしれない。