稲葉真弓/海松

前回にも書いた佐野元春‘コヨーテ、海へ’にはこんな一節がある。「気まぐれな進歩はもういい、まだ見ぬ朝陽がきっと何処かにあるはず」 本書で稲葉真弓は「もう私は新しい時代なんて見たくもないし、トレンディなものも欲しいとは思わない」と書く。
五十代後半のミュージシャンと小説家が示した似たような表明を、老境に向かう年代の人々なら誰もが抱く心境なのだと単純に捉えることができない。彼らのような表現者の感性に訴えるものがこの社会には少ないのか、邪魔なもので満ちていくばかりなのか、そんな疑問がここのところずっと胸に巣くっている。

世間的には定年間近な年代でもあるから、元春も稲葉さんも表層的には戦線離脱したかのように映るけど、絶対に違う(これを定年後のカントリーライフとかスローライフの類に見てしまう人間は読解力が足りない)。生活者の実感を持ってそうではないことを歌い、書こうとすることは、もしかしたら現代の詩と文学の最先鋭であるかもしれない。


余生を考えて生きるにはまだ早いけれど、自分も新しいものへの不審は日々強まるばかりだ。消費社会に踊らされないで距離を置いて生きること。もっとソリッドにシンプルに生きること。今度の総選挙に向けてこのことを新党オオカミ族のマニフェストに加えようかと思っているが、どうだろうか。← ……出馬する気かよ!?


稲葉真弓/海松(みる)(169P)/新潮社・2009年(090719-0723)】


内容(「BOOK」データベースより)
志摩半島の一角の小さな湾近くの傾斜地。手つかずで荒れ放題のそこの土地を買って家を建て、あらためて自分と現実のすべてについて、新しい生の感覚を見出そうとして暮らす。場処を決めたのは、オスの雉。見知らぬ道をタクシーで通りかかったとき、ふと、歩いている雉を見て、奇跡に出遭ったように心がふるえた。家の棟上式で一本ずつ立つ柱に、主である木を私は持つのだ、と感動する。生死のはざまで自分の皮を脱ぐ、ヘビの抜け殻を拾ってうける暗示…。そんな、ある生活事始めといった光景が、弾みと生彩ある言葉で展開される、川端康成文学賞受賞作。

↑これ、説明しすぎ… しかもこれは『海松』一作についてだが、その続篇ともいえる『光の沼』と他二篇を収めた短篇集。


          


なんか最近読んだ本には必ず森とか沼とか出てくる。孤島とか。舞い散る砂粒になるのではなく、森の養分になるべく死ね、という星野智幸のメッセージも強烈だった。

『海松』『光の沼』は志摩半島沿いの荒地に別荘を建てた作家が、自然との格闘を重ねて、東京暮らしで倦んだ魂が浄化されていく様を骨太な文体でエッセイ風に綴った作品。言うまでもなく、五十代のこの女性作家は著者本人のことだろう。
仕事場から遠く離れた場所に家を建てたのはほとんど衝動的なものだったらしい。住宅地ではなく、台帳には「原野」と記載された、周りに民家もまばらな荒々しい自然がはびこるばかりの放置された土地。そんな土地に惹かれたのは二十年以上も続けてきた都会でのマンション暮らしへの反動だったのかもしれない。
東京での生活がどのように彼女を荒ませたのかは詳しく書かれていないが、「生きていくために(働いて)不健康になっていく」矛盾に激しい嫌悪感を滲ませる筆致は痛烈で共感した。

ここを通り過ぎていった時間の膨大さ、残酷さ… 無意識に繰り返される運動が地球の片隅を崩壊へとつなげる、その瞬間に立ちあっていることにうっとりとする。運動と崩壊をつなぐへその緒みたいな時間の流れの中に、いま自分が含まれていることだけを感じていたい。


この作品では自然は美しいものとして描かれない。エコ・ブームで人間が人間の都合の良いように仕立て上げる雄大で牧歌的な自然像は欠片もない。禍々しくて獰猛で放埒なシダやスゲの大群が、主人が留守の数ヶ月の間に家を覆い庭を侵食してしまう。だからこの家に滞在する間、飲み込まれまいと作家は不慣れな鎌を必死に振るうことにほとんどの時間を費やすことになる。奔放な生命力に対抗するにはこちらも生命力を漲らせて対峙するしかないのだが、そんな自然を彼女は敵だとも脅威だとも感じてはいない。
生きていくためにしなければならない仕事をめいっぱいやって、夜になれば眠るしかない。心地良い疲労感が文面に滲んで、彼女がそこでの生活を大切に思うようになっていく過程が心に沁みる。ネオンはおろか車のヘッドライトも信号機も、街灯すらない林の奧で、深い闇の黒さに同化して眠りに落ちることの充実を思う。

 四方をコンクリートの壁に囲まれた都心のマンション暮らしを二十年以上続けてきた女がぼんやりと夢見るもののすべてを、沼はもたらしてくれた。おおげさな言い方をすれば、私は時間の隙間にひっそりと沈んでいたものが、結界を突きやぶってゆっくりと浮き上がり、慎重に、しかしものおじしない様子でこちらに近づいてくる瞬間を見たのだ。あと数日もすれば、会うだろう。あの小さな光たちに。それが私の夏の始まりでもあった。


鎌を振り回しながら藪に分け入って小道をつくりながら進む彼女は、土地の人たちにも知られていなかった沼を見つけた。夏の夜、彼女だけが見つけた光とは… 『光の沼』も良かった!
家を建てて十年、当初は連れだってやって来た家族が、それぞれの事情で疎遠になってはいる。それでも、林の中を歩きながら大声で歌を歌い、摘んできた野イチゴでジャムを作ったり、星空を見上げて流星を追った記憶はこの家に褪せることなく濃密に刻まれている。
この作家が東京では得られない欲しかったもの、それは「確かさ」だったのだろう。それさえあれば他に何もいらない。知覚を鋭敏に研ぎ澄まさなければ手に入れられない「確かな光」。生活費を稼ぐことだけが生きることだと思わされる世の中で、それは決してリタイアして見つかるものじゃない。それを求めるのは気高い志なのだ。


地に足の着いたリアリティのある文章の中で、主人公の幻視が効果的に不安な心情を表す『桟橋』『指の上の深海』も好篇。
この本は、多分、これから夏を迎える時期に思い出す本になるだろう。大人の夏。若い頃にはわからない夏の愉しみがここにはある。「まだ見ぬ朝陽を見つけに行こう」、そんな気持ちにさせてくれるのだ。