宮下奈都 / 太陽のパスタ、豆のスープ

1月に読んだのは、頭の片隅に年表や地図を広げて考えながら読むヘヴィーな本ばかりだった。このタイミングで宮下さんの新刊が出て助かった。
刊行日、仕事帰りにしっかり買ってきた。
昨年11月に『よろこびの歌』を買ったときは中山可穂『悲歌』と一緒に買ったのだけど、今回も同じ書店で中山さんの本も見つけた。こんな偶然が二回続くなんて!と思ってよく見たら中山「美穂」の本だった。間違えて買うところだった。
このあとにリストアップしてある本も堅い&長いのばかりで冊数は伸びなさそう。とりあえず週一冊読めればいいかな。そんな中でこの宮下さんの新刊は一服の清涼剤。



【宮下奈都 / 太陽のパスタ、豆のスープ(250P) /集英社・2010年(100131-100202)】


・内容紹介
 婚約者に突然婚約破棄されて落ち込む明日羽(あすわ)に、叔母のロッカ(六花)さんは“リスト”を作るよう勧める。溺れる者が掴むワラのごとき、「漂流者のリスト」だという。明日羽は岸辺にたどり着けるのか?そこで、何を見つけるのか?ささやかだけれど、確かにそこでキラキラと輝いている、大切なもの。読めば世界が色づきはじめる…“宮下マジック”にハマる人続出中。


          


結婚に向けて突き進んでいたはずなのに破談になってしまい、抜け殻のようになってしまった明日羽は、ぽっかり空いた心の空白を埋めるために「ドリフターズ(漂流者の)リスト」をつくって実行するよう叔母にアドバイスされる。
一人暮らしをする、髪を切りエステに行ってきれいになる、良い鍋を買って料理教室に行く… 思いつくままに列挙しては実行してみるものの、そのリストは自分の弱点を表した不可能リストのようでもあって、思っていたような充実感とは微妙に違う。今さらながらに自分の無力さを思い知らされることにもなってしまった。「やりたいことをやる」なんて書いてはみたものの、本当にやりたいこととは何なのか、彼女はますますわからなくなっていく。

失恋した女性の話なのに男の自分が読んでも「あぁわかる!」と思うところが多いのは、いつもながらの宮下ワールド。たとえば、突然の破局を家族に話せず強情な態度をとってしまう明日羽が叔母に優しく声をかけられると途端に堰を切ったように号泣してしまうシーンなどは、(婚約破棄の体験はないけど)こうやって泣くことが昔の自分にもあったなぁとしみじみと思い出された。



宮下さんの文章を好きなのは、いかにも今の若い人たちの感覚を書いても安易なカタカナ言葉や携帯風の話法を用いないで、ちゃんとした日本語で伝えてくれるからだ。若者の感性を言語力の低い若者言葉そのままには書かずに、そこは表現者としての一線は譲らず、技術をしっかり発揮して丁寧に書く。まったく素直に主人公・明日羽の心情のうつろいを文章化しただけの言文一致の文体に見えるけれど、これこそ宮下さんの文章技術で、これを不自然さを微塵も感じさせないで出来る作家は少ないと思う。
主人公の明日羽は新卒で入社したベビー服会社で働く二十代後半の女性。おそらく流行りものの作家なら「女子力」とか「アラサー」とか「「婚カツ」だなんて軽率な単語を並べてしまうのだろうけど、宮下さんの文章にそんな浮わついた幼稚さはない。当然、そうした流行語を知っているはずなのに使われていないということは、敢えて使わない、選ばない、ということなのだろう。
「選ぶ」ということがこの小説の隠れたテーマのように感じたんだけど、宮下さんの選ぶ言葉と文章は信頼できる。

なにしろ私には何もないのだ。特技もなければ資格も趣味も美貌も財産も、これといったものは何もなく、その上結婚までなくなった。がらんと空いた脳みそから、結婚領の亡霊のような言葉がぽっかり浮かんできて私を惑わせる。鍋、鍋、鍋を買いに行こう― 今となっては料理なんかどうでもいいのに、鍋を買ってもしあわせは戻らないのに。


リストをつくるということは、何を選ぶかということだ。
自分でつくったリストに固執して迷走気味だった明日羽は、最終章で「私が選ぶものが、私の一部になる」ということに気づく。主人公よりだいぶ年上の自分は、それはもうとっくに知っていたんだけど。
たとえば、本だってそうだ。『ヒトラーの秘密図書館』じゃないけど、誰の、どんな本を選ぶかは、その人の個性そのものにとても近いはずだ。それで、読んだものを少しでも確固としたものにしようと、ちょっとでも自分のものになっているか確かめようと、こうやってブログに感想を書くわけだ(笑)
明日羽が始めにつくって自分を縛りつけてしまったリストはただのチョイスにすぎなかった。少しずつ、それまで見過ごしてきた家族や友人の優しさに気づきながら更新されたリストは、セレクトされたものになっていたはずだ。
本当に必要なものを見きわめるのは難しい。本当に必要なものは少しだけあればいい。それを選んで掴み取るのにだって技術や経験は要るのだ。その精度を上げていくには滑稽な失敗を重ねるしかないのかもね、と思いながら明日羽の一歩を見守れたのは、単なる年の功か。



そんなこんなを思ったのは、今週行くクロマニヨンズのライブに備えて“モンド・ロッチャ”をBGMに聴きながら読んだからかもしれない。
『よろこびの歌』のせいで何が何でも宮下奈都とハイロウズ/クロマニヨンズを結びつけないと気がすまないわけではない。詩はハイロウズ時代より言葉数少なく、限りなくシンプルになったこの新作には、ただ聴いているだけならそんなことはないのに、声に出して口ずさんでみると急に涙腺がゆるんでしまうような、断片的な、短いけれど切れ味はこれ以上はない名文句が散りばめられていて、これはライブ観ながら泣くかもと今から困っている。

     本当のことは、本当じゃなきゃ
        放課後の自転車置き場、あなたが全部に見えました、バーン! 〜ザ・クロマニヨンズ‘突然バーン’

これは宮下奈都を読んでいるときと同じ感じなのだ。仲良しの同僚・郁ちゃんの友だちが明日羽に一目惚れして「ガーンと来た」というくだりがある。グッと来たとかじゃなくて、ガーン。ヒロトにはバーンと来るのだ。繰り返し聴く6曲目‘ジョニークール’はそのまま明日羽の応援歌じゃないかとさえ思えてくる。

出たばかりの宮下奈都の新作を読んだ週にクロマニヨンズのライブがある。まったく個人的な偶然のシンクロなんだけど、これだって選択の妙には違いない。宮下奈都とクロマニヨンズを自分は選んだ。誰にも言いはしないけれど、これは自分の一部として誇ってもいい。