黒岩比佐子 / パンとペン


師走のこの時期、思うように時間がつくれず読書が進まない。
年内あと二週間、せめてあと二冊だけは読むつもり(エスパルス次第だけど)。


各紙誌でことごとく採り上げられていた『パンとペン』をやっと読む。
べつに社会主義運動に興味があるわけではない。堺利彦のことを知りたいと思っていたわけでもない。
数年をかけてまとめ上げた本がやっと刊行にこぎつけたというのに、著者はその一ヶ月後に亡くなった。この本を遺して黒岩さんは旅立たれた。最後の仕事。リスペクトをこめて大事に読みたい。


黒岩さんのブログ→古書の森日記 by hisako



黒岩比佐子 / パンとペン 社会主義者堺利彦と「売文社」の闘い (446P) / 講談社・2010年(101210−1218)】



・内容紹介
 弾圧の時代、社会主義者たちは「ユーモアと筆」の力で生き抜いた。堺利彦の素顔に文学から光をあてる画期的試み。長編ノンフィクション誕生!


          



明治時代はとっつきにくい。260年以上も続いた江戸時代の後、近代の夜明けとはいえ封建的な風習制度はまだ社会に色濃く残っていて、現代人からすると当たり前なことがそうではなかったりする。たとえば新聞メディア。現在のような巨大な全国網の報道機関はまだなく、瓦版が発展した個人出版に近い形態だった。報道というよりは何でもありの「読み物」としての性格が強かったようで、記者は論説も書くが三面記事も雑文も連載小説も書いた。発行部数はせいぜい数千〜一万部。主筆知名度と執筆者の顔ぶれが売り上げを決めた。堺利彦もそんな新聞記者上がりのライターの一人だった。
本書を開くと出てくるわ出てくるわ。堺と幸徳秋水がいた時代は近代出版の黎明期なのでもあって、当時の著名作家、知識人たちは堺たちと遠からず何かしらの縁があるのだった。それこそ漱石、鴎外から徳富蘆花尾崎紅葉中江兆民福沢諭吉国木田独歩杉村楚人冠から与謝野鉄幹荷風、啄木、有島武郎尾崎士郎…… 同志は内村鑑三大杉栄荒畑寒村ら。教科書や文学史で名前だけは見覚えがある人名が続々と出てくる。まだ若かった北一輝は自ら社会主義者を名乗って平民新聞に寄付金を送っていたという。日露開戦の機運が高まる1904年、三十代の堺利彦幸徳秋水は「平民社」を創設した。東京市(都ではない)の人口は二百万、自転車が月給の二、三倍もした時代だった。
(「逆賊」のレッテルを貼られて続々と強制検挙される社会主義者に対する漱石荷風、啄木のスタンスも文献や作品の一節から示される。当時公表されていなかった大逆事件の顛末を知りながら沈黙静観した荷風は自分を恥じて『花火』に次のように記しているのが紹介されている。
「私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。私は自ら文学者たる事について甚だしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。」)




教科書や歴史年表上の堺利彦には「社会主義者」のたった五文字の説明しか付かない。しかし彼はそれ以前に「ペンの人」であり文士だった。当時のこの国で、新しい西洋思想の一つの社会主義を初めて伝え広めるのは著述以外にはないのだ。体制側が‘危険人物’とみなそうが、彼自身は「平民新聞」以前から以後もずっと一貫して文筆だけで生計を立てた人だった。
盟友・幸徳秋水が思想家でありカリスマ的革命家だったのに対し堺の社会主義は「趣味七分に理論三分」と評されたのも、元来の作家的気質が堺の大部分を占めていた表れだろう。
特筆すべきは堺と大杉栄無政府主義者として思想上の隔たりはあったものの堺とは「売文社」まで活動を共にした。1923年の大震災時に虐殺された)の語学力で、彼らは独学で(しかも獄中で!)英・独・露語を習得したのだった。明治大正期に多くの海外文学作品や思想書の原書を取り寄せて自ら日本語に翻訳、紹介した功績だけでも凄いものがあると思うのだが、その先進性と旺盛な知識欲とバイタリティが新しい社会思想に結びついたのは当然かもしれない。それを反逆者として排斥するしかなかった当時の(そして今でも?)日本の未成熟を思わされる。紙幣にも顔が載る伊藤博文新渡戸稲造の時代、いかにも大時代的な『坂の上の雲』のアナザーサイドなのである。

(自分が若い頃に初めて読んだ岩波文庫のロンドン『野性の呼声』『白い牙』は堺訳のものではなかったか。『レ・ミゼラブル』もそうだったのかもしれない。数ページで放り出した『共産党宣言』の書き出しは確かにあの有名な‘一個の怪物欧州を徘徊す’だったから、堺版だったのはまちがいない)




本書は大逆事件幸徳秋水社会主義者12名が死刑。当時はまったく公にされず、真実が明らかになったのは戦後なのだという…。堺はそれ以前の赤旗事件の罪を問われて獄中にあったためにたまたま捕縛、刑死を免れたのだった)までを前半とし、後半は多くの仲間を失った堺が‘猫をかぶって’立ち上げた「売文社」の事業にスポットを当てていく。官憲の厳しい監視下で糊口を凌ぐ方策が「売文」だったが、それは多くの同志の衣食を助けるための機関でもあった。新聞雑誌の紙面を埋めるための雑文から和訳・外国語訳の翻訳業務、広告文案、研究論文、代議士の演説草稿、果てには帝大卒論の代筆や男女関係の精算書やら子供の命名まで、それこそ何でも請け負っていたという。出版、編集、広告代理店、翻訳エージェンシー等、全部ひっくるめたような組織だった。
中でもユニークなのは、今でも「安田記念」と冠したレースがある日本競馬界の父と称される人物の天覧本が実は売文社制作であるという件りで、宮内省に納められたのが実は‘逆徒’である社会主義者の残党がつくった本だったというのだから痛快である。また、海外になど行ったことはないのに(堺ら前科者にはパスポートが交付されなかった)現在の「地球の歩き方」のような海外旅行ガイド本の先駆けといえる本も手がけているし、現在でも流行の「名言集」のポケット版まで作っている。日蓮のことなど何も知らない者が宗教書を書いたりしていたというのだから、その大胆さと幅広さには著者ならずとも驚嘆させられる。
当然ながらこれら売文社の代筆代作の仕事の多くは編集者も執筆者も伏せられているのだが、著者は古書展で見つけた怪しげな本を購入してきてはかすかなヒントから堺利彦にたどり着く数々の新発見をしているのである。


          


黒岩さんもジャック・ロンドン『野性の呼声』を読んで涙したという。堺の訳が良いのだ。言うまでもなく、ただ翻訳してあるのではない。
膨大な資料文献に当たり、自ら買い集めた百年前の古書を手にとるうちに黒岩さんの胸のうちでは「社会主義者」よりも「文筆家」としての堺利彦が大きくなっていったのではないだろうか。いったい彼はその生涯にどれだけの文章を書いたのだろう。彼は作家ではなくフリーライターの魁けのような存在であって作品として現代に残るものはそう多くはなく、大半は歴史の渦に消えてしまった。黒岩さんが同業者として、同じ本好きであり物書きとして、そんな堺利彦にシンパシーを感じるのは当然のことだったかもしれない。
‘非戦’を訴え、自由と平等を旗に掲げて男女同権や普通選挙権を求めた。言論と表現の自由のために戦った。民主主義の名の下にわれわれ現代人が当たり前に享受している権利は、大正デモクラシー以前にすでに社会主義者の先人が種を蒔いていたものであることを本書はありありと教えてくれる。そしてその先人は苦難をユーモアと「ペンの力」で乗り越えた剽漢で名文家だった。古書展を廻る黒岩さんにはその嗅覚があったにちがいない。

時代に抹殺されかけた百年も前の人物像は崩れかけた冊子の薄汚れた文字から立ち上がらせるしかない。本書に凛とした評伝のたたずまいをもたらしているのはひとえに著者の真摯な情熱の精度による。誰に課されたのでもなく何かに迎合しようとするのでもない。黒岩さんが題材として堺利彦を選んだのだが、実は対象が筆者を指名したのではなかったか。選び選ばれたその運命にひたすら自分を律して向き合って、彼女はやってのけた。肉体を病魔に蝕まれてはいても、たしかに彼女は克った。愛情をこめた丹念な仕事の成果がここにある。精魂こもったそれは救済でもあって、きっと堺利彦も喜んでいることだろう。
素敵な本を読ませてもらいました。黒岩さん、どうもありがとう!
合掌。謹んでご冥福をお祈りいたします。



本年ベストの一冊。オオカミ本認定。