C.ブロンテ / ジェイン・エア


金原瑞人さん訳の『武器よさらば』を買いに行ったときに、見てはならないものを見てしまった。古典新訳文庫11月の新刊。あろうことか、『高慢と偏見』ではないか! なんでいまさら…としばし呆然。いや、今はヘミングウェイだ。『高慢と偏見』はもう十分だ。
ほっときゃいいのに、ほっとけない。読むべきか読まざるべきか。翻訳は小尾芙佐さんなのである。『アルジャーノン』、『夏への扉』、『くらやみの速さはどれくらい』、みんなこの人である。悪かったためしはないのである。
それでまずは『われはロボット』を読んで、『高慢と偏見』再読の前に『ジェイン・エア』も読んでしまえとますます面倒なことをやっている12月。他人からは支離滅裂に見えるかもしれないが、自分的には「訳:小尾芙佐」シリーズで筋が通っているつもり。一事が万事そんな調子で、われながら本当にめんどくさい。



【 シャーロット・ブロンテ / ジェイン・エア (上500P、下588P) / 光文社古典新訳文庫・2006年 (111216−1222) 】

JANE EYRE by Chalotte Bronte 1847
訳:小尾芙佐



・内容
 幼くして両親を亡くしたジェイン・エアは、引き取られた伯母の家で疎まれ、寄宿学校に預けられる。そこで心を通わせられる人々と出会ったジェインは、八年を過ごした後、自立を決意。家庭教師として出向いた館で主のロチェスターと出会うのだった。ジェインとロチェスターは、お互いの中にある情熱、優しさ、聡明さに気づき惹かれ合う。愛を深めていく二人。だが、運命は過酷な試練をジェインに用意していた。苦悩の果て、二人に訪れた結末は…。究極の愛は結実するのか。


          


嵐が丘』はなんとなく覚えているけど、これはきれいに忘れていた。というか、最後まで読んでない。以前は岩波文庫版だったと思うが上巻途中で挫折している。長いのだ。この新版も二巻で1000ページ以上ある。一人称の細々とした観察眼をもって語られる貧しい少女の波乱の物語は、当時血気盛んだった‘厚顔の微・少年’には少女マンガ的に思えてしまってついていけなかったのかもしれない。
今回は同じ翻訳者の『高慢と偏見』を続けて読むことにしているのだが、どうしてもイメージがダブる。ジェインとリジーロチェスターとダーシー。手つかずの荒地(ムーア、ヒースの丘!)、広大なお屋敷を舞台に展開される平民と荘園領主の階級差を越えた恋愛模様。『高慢と偏見』が1813年、『ジェイン・エア』が1847年の発表(『嵐が丘』も同年)。「似ている」という感想は、それほど的外れでもないと思う。

 「おまえは寒い、おまえは気分が悪い、おまえは愚かだ」
 「証明して」と私は答えた。
 「してやるとも、ほんのわずかな言葉でね。おまえが寒いのは、おまえがひとりぼっちだからさ。おまえが気分が悪いのは、人間にあたえられたもっとも良い感情が、もっとも崇高な感情が、おまえから遠ざかっているからさ。おまえが愚かなのは、苦しいからといってな、その感情をそばに招きよせようともせず、それが待っているところへ足を踏み出そうとしていないからさ」


何かで読んだ覚えがあるのだが、C.ブロンテはジェイン・オースティンの描く女性像に批判的だったという。なんとなくだが『高慢と偏見』は大衆小説で『ジェイン・エア』は文学作品、という区分けもされているような気がする。(たとえば世界文学全集に後者はまず収められるのに前者はめったに選ばれない)
片や女ばかりの五人姉妹のベネット家に育ち、良縁こそ良い人生と信じこまされているエリザベス。一方のジェイン・エアは幼くして両親と死別して天涯孤独の身だが、男性におもねることを嫌い自活して生きる強い意思を持っている。設定からして両作品の主人公の生き方は自ずとちがうし、しかし、大きなちがいはそれだけのようにも思える。
C.ブロンテが『高慢と偏見』を意識していたかどうか知らないし(当然読んでいたはずだが)、およそ三十年の差が両作品のフェミニズムの感覚のちがいに表れているのか、文学研究をするつもりはないのではっきりしたことはわからない。でも、読んでいて『高慢と偏見』に似てると思う場面がいくつもあった。



豪壮な領主邸で催される華やかな社交パーティー。美貌の令嬢ではなく身分不相応な主人公が見そめられる。教養をせんさくされ、ピアノを弾かされて下手だといわれる。慎ましやかな彼女は草花を愛でながら野山を散策するのが好きで、何マイルも歩くことを厭わない。
ジーもジェインも同じように映るのは、十九世紀初頭の社会風俗がそのようなものだったということなのかもしれない。現代から見ればずいぶんのどかな時代であり、彼女たちの暮らしぶりに大差はないのだ。
ローウッドの慈善養護院で育ったジェインは(このローウッドの施設は『わたしを離さないで』のヘールシャムを思い起こさせた)、新聞広告を出して家庭教師の職を探す。ロチェスター邸を出た彼女はお針子でも女中でもして生計を立てようとする。独り身の女性が生きていくにはそのような道しか選択肢はなかったのだろうが、彼女の姿が当時のイギリス中の‘ジェイン・エアたち’をどれほど勇気づけたことだろう。物語の本筋はラブストーリーだが、自分は愛を貫く信念の強さよりむしろ、古い慣習に縛られないジェインの自立性に新しいヒロイン像を強く感じた。  

 「さて、ジェインの性格の厄介なところがお出ましだ」と彼はついに口を開いたが、その表情から私が予測していたよりも平静な話しぶりだった。「これまでは糸巻きに巻かれた絹糸はするすると伸びてきたが、いつか途中でからまったり、もつれたりするのではないかと案じていた。とうとうお出ましだ。さあ、悩みやらお腹立ちやら、果てしない厄介ごとの始まりだ!やれやれ!」


男が読んでもそれほど面白くないかも、壮大なメロドラマというだけなのでは?と序盤の少女時代はちょっと退屈であまりページが進まなかったのだが、ジェインが18歳になってロチェスター邸で暮らし始めて以降はがぜん面白くなって、意外にハマった。ジプシーの占師とか屋根裏部屋の謎とか、ちょっとホラーめいた仕掛けもある。 
同性としては、むっつり屋のダーシーより、このロチェスター氏の方に好感を持った。『高慢と偏見』同様に恋しあっているはずの二人の会話がじれったくてもどかしくてイライラさせられるのだが(要するに楽しいのだが)、ことに二十も年長のロチェスターが「わが小妖精」ジェインに手を焼き翻弄されて、ますます‘ぞっこんマイラブ’状態に陥っていく様が微笑ましくも切なくて同情を誘う。ジェインはか弱そうに見えて実はなかなか強情で、こうと決めたら頑として動じない。女性読者は喝采するかもしれないが、ロチェスターならずとも男性は「この小娘めが…」と小癪に思うのではないか。自分ならさっさとイングラム嬢を嫁にするわいとか、ミス・オリヴァーといい仲にならないなんてもったない!なんて思うようでは、実はそれほど真剣に読んでいなかったのではないかと、自分には邪なところがあるのだろうかと、ちょっぴり反省しつつも無事読了。
いうまでもなく小尾さんの翻訳は会話場面が秀逸。『くらやみの速さ』でも『われはロボット』でもそれはわかっていたけれど、SF系作品だけでなく、こういう古典でもそれは変わらなかった。会話部分のちょっとした言葉づかいが登場人物のキャラクターを決定づけてくれるから読みやすいのだ。彼女の『高慢と偏見』が楽しみになってきた。