川島幸希 / 国語教科書の闇

新美南吉「ごんぎつね」が小学四年用国語教科書の定番であるということに触発されて…… ちょうどこんな本が出たので読んでみた、第二弾。



川島幸希 / 国語教科書の闇 / 新潮新書 (188P) ・ 2013年 8月 (130911-0913) 】



・内容
 国語の教科書が、変だ。「羅生門」「こころ」「舞姫」は、議論もされずに「定番教材」と化し、横並びで採録される没個性ぶり。国語教科書がここまで画一化したのはなぜなのか? そもそも、これらの「暗い」作品は教材にふさわしいのか? 「定番小説」という謎、知られざる舞台裏、採択を決定する「天の声」、教員の本音、仰天の実態。問題は歴史教科書だけじゃない。もう一つの「教科書問題」がここにある。
(新潮社HP→ 著者による要約  )


          


今月初めに『それからのエリス』という単行本が講談社から出た。森鴎外舞姫」のモデルとされるドイツ人女性エリーゼ・ヴィーゲルトの生涯を追った力作のようで、自称読書家としては一応リストアップはしてあるものの、必読マークは付けてない。高校の国語教科書に載っていた「舞姫」の良くないイメージ(はっきり言えば反感、反発)が今でも胸に色濃く残っているからだ。
しきりに「近代的自我」なるものの理解を強要された高校現代国語の授業の一単元のせいで、大人になってもずっと鴎外作品を敬遠している。どうやらそういう人は自分だけではないらしいのだが、では、なぜ生徒に嫌悪感を与える内容の作品が長らく教科書に掲載され続けているのか。本書では、そもそも「舞姫」は高校教科書にふさわしい作品ではないと断言していて(けして森鴎外その人を批難しているわけではなく、あくまで教科書教材として)、同感する部分が多かった。

 鴎外の文学を知ったうえで、それを好まないとか受け入れないのは一向に構わない。それは個人の自由だ。しかし高校時代に読んだたった一つの小説への印象が、多くの人に鴎外の人格に偏見を抱かせるとしたら、鴎外を読むことに拒絶感をもたらすとしたら、こんな悲劇はない。そしてそれは、文学の世界にとどまらず、近代日本の生んだ最高の知識人の一人である鴎外への冒涜だと思う。


舞姫」とともに俎上に載せられるのは、やはり高校国語教科書の定番小説として君臨する漱石「こころ」と芥川「羅生門」。たとえば漱石の場合、かつては「草枕」や「明暗」、「それから」「三四郎」「虞美人草」などが教材に選ばれていた時期もあって各社それぞれにヴァラエティがあったのに、現在では全社が「こころ」だけを載せるようになった。鴎外も芥川も同傾向で、高校生向け教材としてふさわしいと思われる作品は他にありながら、なぜこれらの暗いエゴイスティックな作品に統一されていったのかを探る。
気になるのはもう一つの定番「山月記」だが、中島敦は三人の文豪に比べて「山月記」以外に選択肢がないので不問にすると短い説明があるだけ。 先に読んだ「『山月記』はなぜ国民教材となったのか」が七月に刊行され、本書が八月に出された。何となくこの偶然に‘「国語教科書の闇」の闇’を感じてしまうのだが(笑)、教材として「山月記」は合格で、「羅生門」「こころ」「舞姫」は不合格ということで大人の事情は斟酌したい。



どの教科書でも「羅生門」が高一の一学期始めに、「こころ」が二学期始めに配置されている構成の意図や、教科書掲載における著作権問題など、教科書編集員と現場の教師の意見を集めながら業界の裏側を突っつく。
実際のところは教科書会社といえども利潤を追求する出版社に過ぎず、少子化社会を迎えてコストカットと効率優先は経営上の至上命題のはずである。最大の壁である検定をクリアできるかどうかわからない新教材を準備するより、採用歴のある作品を使う方が楽なのに決まっている。大手の寡占化も進む状況で各社横並びになっていくのは何も教育産業にかぎったことではない。
また、授業内容よりも進学実績が最重視される現在の学校現場でも、好ましくはないと思いつつも教え慣れた安定教材に頼らざるをえない事情も理解できる。
学習指導要領は変わり、社会の多様性はますます進んでいるのに、教科書の内容はむしろ同じになっていくというのもおかしな話だが、その権威主義的基準はもうずいぶん前から現代の世相にマッチしていない。検定制度と教育行政、産業のいわば聖域、既得権への執着が今の状況を招いて健全な新陳代謝が行われなくなっているのは外部の素人にも明らかである。

 こんな具合に、どこかに道徳的教訓が含まれていることが、「定番教材」の条件なのである。ただ「読んで楽しい」だけでは授業にならないのである。国語教科書は「正しい生き方」を教える、「教訓」が付き物の「お説教臭い」科目でなければならないらしい。


もっぱら教科書を作る側の実情に焦点を当てた本書には書かれていない気になることがある。一つの商品として見た場合に、教科書というのは実際の使用者の直接的な意見が反映されにくい特異な商品だと思うのだが(それゆえ作る側に甘さが生じやすい)、そのもう一方の当事者、使う側の生徒と教科書代を払う保護者の意見が見えないことである。
三作品が定番化したのは80年代。これらの教材で学んだ生徒が一巡りして大人になり親となった世代は、いま自分の子どもが使っている教科書にどれほどの関心を寄せているのだろう。無関心、無批判なまま日本人全体の「国語力の低下」が進んでいるのも見逃せない現実であるはずだ。(ちなみに今年度の全国学力テスト、小学校国語の成績が最下位だったのは静岡県である! 川勝平太県知事が激怒して現在ちょっとした騒動になっている)
羅生門」「こころ」「舞姫」を継続採用し続ける教科書会社と、自分の被教育経験を客観視しないで学校に丸投げする保護者。互いの当事者意識が稀薄なために社会問題化されず、事態は水面下で悪化しているという構造は現代社会のあらゆるところに潜んでいて、その一断面が如実に露わになったのがフクシマなのだといったら飛躍があるだろうか。
近代的自我の成れの果て。いったい何を学んできたのだろう? 悪いのは教科書メーカーばかりではないのである。



少し前に近い将来、教科書もタブレット型の電子端末になるという小さな記事を読んだ。それはそうなっていくのだろうと思う。重いカバンを持って登校し、教科書を忘れて行って叱られる。生徒にそんなストレスはないにこしたことはない。
でも四月、新学期の教室で、「いい匂い!」「国語の方がもっといい匂いがする!」 誰かの声に級友がみな一斉に国語の教科書を開いて鼻を突っこむ。胸いっぱいに吸いこむ真新しい教科書の紙と糊の匂い。それはほんのり苦く香る柑橘系の、ちょっぴり大人の匂いだった……。そんな経験を知らないこれからの子どもたちは少しかわいそうだ。