上橋菜穂子 / 鹿の王


上橋菜穂子 / 鹿の王 / 角川書店(上568P、下560P)・2014年9月(141029−1102) 】


・内容
 強大な帝国・東乎瑠にのまれていく故郷を守るため、絶望的な戦いを繰り広げた戦士団“独角”。その頭であったヴァンは奴隷に落とされ、岩塩鉱に囚われていた。ある夜、不思議な犬たちの群れが岩塩鉱を襲い、謎の病が発生する。その隙に逃げ出したヴァンは幼子を拾い、ユナと名付け、育てるが―!?厳しい世界の中で未曾有の危機に立ち向かう、父と子の物語が、いまはじまる―。


     


狂犬の群れが人間を襲う事件が起き、疫病が流行り始める。咬まれた者の多くは死に至るが、稀にまったく発症しない者もいる。岩塩坑で起こったその襲撃事件でただ一人生きのび、幼児を連れて逃亡する奴隷囚ヴァンと、奇妙な疫病の治療法を見つけようとする帝国の高位な医術師ホッサル。出自も境遇もちがう二人のストーリーがそれぞれに展開しつつ交錯し、やがて一つに束ねられていく。
上橋さんの大作なので、今作も雪に覆われた山岳地から豊かな王都までの広大な土地と帝国領内の複雑な民族事情が背景となっている。『獣の奏者』を読んだときにもそうしたように、今回もメモ用紙を横に置いて(大雑把だが)地図を描き、主な登場人物の出身地や部族名を書きこんでいった。作中の人間関係=微妙な民族感情をもとにして書かれているので、これを把握しておくことは上橋作品を理解するうえで大事なのである。

 狼は、他の獣とは違う。もとを辿れば、人と狼は同じ神親から生まれ、仲間とともに狩りをして暮らすように生まれついた獣だ。
 それに、狼は人よりずっと神親に近い。黄泉の境目を駆けて、するりと深い闇へと入っていける、畏怖すべき、聖なる獣だ。だから、人は彼らを敬わなければならない。決して、罰当たりな農民たちがするように、狼、などと呼び捨てにしてはならない。


主人公ヴァンは‘飛鹿乗り’の元戦士。帝国に服従を強いられている辺境の出身で、暗い過去を持つ天涯孤独な男である。
彼が駆る飛鹿(ピュイカ)という架空の動物は、『獣の奏者』でエリンが愛した王獣リランを思わせる存在。ヴァンを背に雪山や急峻な岩地を自在に駆けることができるのだが、ファンタジーのお約束とはいえ、野生動物との一体感と昂揚感を大いに感じさせてくれるこの場面が良い。
そのヴァンの拾い子ユナが堅く閉ざした男の心を溶かしていく。ユナは実父のようになついてヴァンを慕い、ヴァンもユナに愛情を注ぐようになるのだが、二人の平穏な生活は長くは続かなかい…という筋書きも、わかってはいてもはらはらさせられっぱなし。物語がどうなるとしてもこの二人の絆だけは引き裂かれてほしくないと思いながら、やはりこの先に悲劇が待っているのだろうかという覚悟も胸に読んでいく。


ヴァンとユナは山犬に咬まれていながら発症しなかった。なぜ同じ病に罹って死んでしまう者とそうでない者がいるのか? その謎を突きとめようとするもう一人の主人公が宮仕えの青年医ホッサル。その病が自然発生的なものでなく、山犬の集団を組織した何者かが意図的に広めているのではないかという疑念に、支配者と支配される側の複雑な事情が絡んで、物語の伏線として政治劇的な様相が強まっていく。
病原菌が入ってしまった人間の体内でどのような活動が行われているのか、ホッサルが人体を一つの国家に喩えて考察するくだりは今作のクライマックスの一つでもあった。共存と共生。人間にとっての病素は組織においては何か。おそらく上橋さんはこの作品の中にそれを最も書きたくて、最も苦心したのだろうと想像するのだが、菌藻類から始まる食物連鎖の不思議なシステムや、肉体が自然に備える免疫や治癒力を自分の身体に当てはめて考えることができて唸らされた。

 閉じた瞼の闇に、小さな鹿が跳ねるのが見えた気がした。渾身の力をこめて跳ね上がるたびに、命が弾けて光っていた。
 ( …… 踊る鹿よ、輝け )
 圧倒的な闇に挑み、跳ね踊る小さな鹿よ、輝け。


主人公の生きざまをなぞるだけでもそれなりの感想、印象を持つことはできるであろう、完全なフィクション作品である。しかし、上橋作品に文化人類学的にいつも書かれる抑圧者−被抑圧者の構図は少し想像をめぐらせれば、案外自分と身近な隣人、あるいは近隣の国々との関係にも思い当たるところがある。今作で扱われる疫病の拡散も見方によればバイオテロとも映るのだが、その根拠となる憎悪の源泉は現実世界でも見過ごされがちだ。そこに目を瞑ってはならないのである。
ヴァンとユナはこの後どうなったのか。特にヴァンと同じ能力を秘めているらしいまだ幼いユナがこれからどうやって生きていくのか。ちょっと考えただけでも、何やらエリンみたいな悲運が待ち受けていそうな気もして、これまた続編を期待したくなろうというもの。
個人的には自分がこれまでに読んできた本の中から‘裏返し’や‘魂送り’、‘ワタリガラス’などのキーワードから連想できる作品がたくさんあって、もしかして上橋さんもあれを読んでいたのかと考えたり、そんなところも楽しかった。お茶とおつまみをたっぷり用意して、他の情報はシャットアウトして、徹夜覚悟の短期決戦で一気読みすべき傑作である。

エスパルス2014:29、30節 / 一進一退


【 10月22日 / Jリーグ第29節 : 清水 2-1 新潟 / ‘ノヴァへの道’ 】


前半、互いに右サイドからチャンスをつくる。清水はノヴァコヴィッチが右に流れて、中央の空いたスペースに石毛や六坂が走りこんで好機をつくったが、逆に元紀が決定機に絡めなくなっているのは気がかり。CKを平岡がニアで流して、ファーに詰めていた石毛が押しこんで先制。


          
          
          


後半、アンカー拓也の横をFWへの縦パスをポンポン通され、ピンチが続く流れで追いつかれた。なおも勢いは新潟。しかし、選手たちはもちろん、スタジアムの誰もがこのままドローでいいとは思っていなかった。
ギリギリまで待って投入された村田が右サイドを突破、ためてためて、ノヴァのマークが離れるまで待ってクロスを送った。


          
          


雨中の消耗戦を制して、中三日でホーム広島戦。疲労とストレスがある中、どんな布陣で臨むか楽しみだ。




【 10月26日 / Jリーグ第30節 : 清水 1-3 広島 / ‘スペシャル・ワン’ 】


個人的にはノヴァコヴィッチを休ませて、FC東京と名古屋を破った天皇杯での‘機動力サッカー’を期待していたのだが、ノヴァを先発起用、藤田息吹を使ったダブルボランチだった。
相手の思惑どおり、各駅停車、短距離リレー的なショートパスだけでダイナミックな動きを封じられて打開できない。サイドに人数をかけさせられて、肝心の中の枚数は常に不足していた。そうこうしているうちに速攻を受けて先制を許した。


          
           
         

目の前で見せつけられた広島の1点め。Jリーグゴール集でこれまでに何度も見ていた佐藤寿人と石原の鮮やかな連係。続く2点め3点めも、二人か三人で決めきってしまう広島の「型」の効率と精度は、手数をかければかけるほどゴールから遠ざかっていくような清水の攻撃を祈る思いで見つめていた側からすると、正直に言って羨ましいほどだった。これで高萩もいたらもっと失点していたかもしれない。1ゴール1アシストをいずれも職人的なワンタッチプレーで決めてみせた寿人には格の違いをまざまざと感じさせられた。
近年の広島の充実ぶりと対照的な清水のチームづくりの拙さを、どうしても思わずにいられない。岡崎&ヨンセン退団後、大前・高木俊と毎年変わる外国人1トップでFWを構成してきたこの四年、スタイルを確立できないままに現在のこの苦境である。


          


広島のみならず、対戦チームは清水の攻撃陣にさほど脅威を感じていないだろうし、逆サイドがぽっかり空く弱点の攻略法も知れ渡っているだろう。相手には「型」があり、こちらにはない。竹内と浩太が戻ってきたのはマイナスではないにしろ、いまチームに必要なのは「早さ」であって、彼らはその演出者ではない。「型」がないのだから流動的な、むしろ不定形であることを武器とするような、型破りな奔放さを見せて欲しいと自分は思う。そういう部分がなければここ何試合かのように‘清水のスペシャル・ワン’のはずの大前元紀も普通の選手に成り下がってしまうのではないか。
もはや戦術やシステムをうんぬんする段階ではないのだが、ここ数年のツケを思えばこの試合結果は妥当なもの。ホームで落とした星は絶対にアウェーで取り返してこい。
ひと月後、リーグの大詰めに天皇杯準決勝を挟んだ三連戦がある。大榎はそこでどんな決断をするだろうか。


          

加藤直樹 / 九月、東京の路上で


加藤直樹 / 九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響 / ころから(216P)・2014年3月(141021−1024) 】


・内容
 関東大震災の直後に響き渡る叫び声、ふたたびの五輪を前に繰り返されるヘイトスピーチ。1923年9月、ジェノサイドの街・東京を描き現代に残響する忌まわしい声に抗う― 路上から生まれた歴史ノンフィクション!


     


関東大震災直後、朝鮮人虐殺の事実が「あった」「なかった」という議論がある。本書を読む前にいくつかの書評を見ていたし、ブログをもとにした著者の執筆動機や経緯も知ってはいたが、なるべく先入観を封じてニュートラルな心持ちで読むよう気をつけた。心情的にはもちろん虐殺なんて「あってほしくない」。
震災時に「朝鮮人が井戸に毒を入れたというデマ」を初めて聞いたのは小学生の頃だったと思う。それがデマだったということより、井戸に毒を入れられる恐怖感の方が子ども心には強く残った。
自分の知るかぎり、井戸水(浄水場や水道)が意図的に汚染された事件は過去にない。してみれば、九十年も前の誰かが流した「井戸に毒」の嘘が長いあいだ自分の中で韓国・朝鮮人を傷つけていたのは、自分にとってまぎれもない事実である。


横浜本牧が発端とされるそのデマは内容を変えながらまたたく間に関東一円に広がった。地震発生翌日には東京東部、二日後には埼玉、千葉まで伝わっていたという。たださえ恐慌状態にあった被災民は青年団在郷軍人会などを中心に自警団を組織して‘不逞鮮人来襲’に備えていた。やがて彼らは目についた朝鮮人を片端から捕らえて暴行、殺害してしまう。
そんな惨劇が特定の一地域だけでなく、東京各地、さらには震災被害の比較的小さかった千葉や埼玉、群馬でも同時多発的に起こっていたという。
本書は当時の証言や調査記録からの引用をもとに、大地震の発生から流言蜚語の拡散とともに野火のように広がっていく暴力の連鎖を追っていく。朝鮮人ばかりでなく多数の中国人、また朝鮮人とまちがわれた日本人も殺されていたという、にわかには信じがたい、信じたくない記述が並んでいて、読んでいて胸が悪くなる。しかし筆致は淡々として、リアリティはページを繰るごとに増していった。

 小山駅前では、下車する避難民のなかから朝鮮人を探し出して制裁を加えようと、3000人の群衆が集まった。このとき一人の女性が、朝鮮人に暴行を加えようとする群衆の前に手を広げて立ちはだかり、「こういうことはいけません」「あなた、井戸に毒を入れたところを見たのですか」と訴えたという逸話が残っている。


疑問に感じる点がないわけではない。
明かりといえば焚き火か提灯ぐらいしかなかったであろう深夜の河原で、被災者の大群の中からどうして朝鮮人を識別できたのか。異常心理状態だったとしても一般人が(警察や軍に引き渡しもせず)自らの手で、衆人環視のその場で、殺人行為を行えるものだろうか。下手人よりはるかに多くいたはずの目撃者たちは、その後も口を閉ざしたまま生きていたのか。
そして、やはりもっとも不思議に思われるのは、無関係のいくつもの場所で同じような殺傷行為が無名の民間人によって行われていたということである。権力の強制命令や狂信的思想の誘導によって引き起こされるものという自分の「虐殺」イメージとはかけ離れていて、それだけにこのすべてが事実であったとするなら、余計に恐ろしく感じられるのだ。そこには正義に根ざした自制心や自浄能力といったものが機能しない群集心理と暴力衝動しかない。日本人が熱狂に流されやすい民族だとしても、これほど単純に動物的な集団に変わってしまうものなのか。


本書では韓国併合や三一運動など、当時の日朝関係には詳しくは触れていない。事件の根底にあるはずの、当時の日本人の朝鮮人に対する一般的感情も多くは語られない。そうした社会的背景をあえて省き、九十年前にあったとされる無数の事件の断片から見えてくるのは何か。
1923年を現在につなげようとする著者の意図は充分に伝わってきた。大正時代の世相を知らないので、もし自分がその場にいたらどうしていただろうと自分に引きつけて想像するしかないのだが、そのとき、思想や政治信条などは言い逃れのための理屈にすぎないのかもしれない。我知らず潜在意識に刷りこまれているものが、実はいちばん怖いのかもしれない。
「ころから」という赤羽の小さな出版社の本。目を背けたくなるような惨劇が書かれているとはいえ、二色印刷で読みやすいよう心配りされていて、つくりに好感の持てる本となっている。

最近、NHKの番組を始めとして、オリンピック開催に向けた‘復興都市・東京キャンペーン’みたいな風潮が強まっていると感じる。熱狂の操作。そこから消されている歴史的事実があることを忘れないようにしたい。

深水黎一郎 / テンペスタ 天然がぶり寄り娘と正義の七日間


意図していたわけではないが、これも幻冬舎の本だった。
本書を買ったときに『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』というタイトルの本が目に留まって、それも幻冬舎だった。例によってちょっとだけ迷った。「天然がぶり寄り娘」か「いつまで女子問題」か。ジェーン・スーより深水黎一郎を選んだのは、そのときレジにいたのが妙齢の女子だったから、ではない。


【 深水黎一郎 / テンペスタ 天然がぶり寄り娘と正義の七日間 / 幻冬舎(313P)・2014年4月(141016−1018) 】


・内容
 東京の大学で美術の非常勤講師を務める賢一。30代も半ばを過ぎているのだが結婚の予定もなく、ギリギリの収入の中、一人ほそぼそと生活を送っていた。そんなある日、田舎に住む弟から一人娘を一週間預かって欲しいと連絡がくる。しぶしぶ引き受けることになった賢一を駅で待っていたのは、小学四年生の美少女・ミドリ。しょっぱなから毒舌全開、得体の知れないミドリに圧倒されながら、賢一とミドリの一週間の共同生活が幕を開ける…。


     


『人間の尊厳と八〇〇メートル』がとても良かった深水黎一郎さんがこんな作品も書く人とは知らなかった。どんな作品かというと、ウナギを食べたくなるのだ。
「国連安保理決議で今晩は鰻を食べようと決まった」とか、揉み手しながら「民の不平を抑えるために、ここはひとつ、ウ・ナ・ギで…」などとご託を並べて誰かにおごらせてみたい。いい匂いがする鰻屋の前で足を止めて、「うなぎを食べさせろー、オー! ウ・ナ・ギ!、ウ・ナ・ギ!」と拳を突き上げてシュプレヒコールしたくなる(ニホンウナギの保護は大事です)。人間の尊厳とかそんなのは完全にどこかに吹っ飛んだ、困った作品だったのである。
もちろん大人男子たるもの、本当にそんなことはやらない。やるわけにはいかない。やるわけがないのだが、ウナギパイでは代わりにならない。頭の中に飼っている鰻がそろそろ食べ頃で、たっぷり脂がのったその豊満ボディをくねらせながら発する「うなぎうなぎうなぎうなぎうなぎう…」という呪文かフェロモンみたいなのに完全に脳を支配されてしまった。

 「じゃあ、がぶり寄りって何なのさ?」
  賢一はまたもや弱った。これはさっきより、もっと難しい。
 「だからさ……がぶって寄るんだよ」
 「だからそれが何だって訊いているのよ!」


大学の非常勤講師が9才の姪っ子を預かることになる。たださえ子どもが苦手なインテリの賢一がその少女ミドリに一方的に振り回される嵐のような一週間の物語は、背景にある昨今の大学事情も含めて、奥泉光クワコーものとも少し感触が似ていた。
ふだん子どもと接点のない独身者にとって、(特に小学生年代の)子どもは怪物のようなものだろう。地域あいさつ運動というのがあるのを知ってはいても、どこかの小学生にいきなり「こんにちわ!」と元気良く声をかけられてビビったりする。児童を狙った犯罪が多い世相でもあるので、できるだけ関わりたくないものだと思ってもいる。
そういう主人公のところへ、小動物的ないかにも現代っ子が突然転がりこんでくるとどうなるか? 大人が天真爛漫なちびっ子の言動に翻弄されまくって、ことあるごとにぎくりとさせられる「パパはニュースキャスター」的筋書きはそう珍しいものではない。


親子ではない大人と子どものミスマッチによる喜劇的光景が続発して笑わせられっぱなしなのだが、予定調和的な陥穽にはまるのを危惧しながら読んでいく。推理作家協会賞を得た作家が天真爛漫な子どもネタを書くのは危険なような気もしていたのだが、そんな懸念は杞憂に終わった。
実際にこんな9才がいるかどうかはともかく、よくぞこれだけ小ネタを仕込んだものと感心するくらい、初日から最後まで冗舌のテンションは下がらない(うなぎネタはそのほんの一例にすぎない)。ミドリのテンションではなく、書いている作家のテンションが、である。
落としどころがしっかり心得られていて、こういう嵐に見舞われるのも悪くはないかも…と思わされるのは、定型を楽しみながら少しだけ外そうとした著者の目論見どおりか。ちょうど二週続けて来襲した台風一過の青空のようなエンディングだった。

 「お、お前は一体、どういう耳をしてるんだ!」
  途中で声が裏返った。
 「き、聞きまちがいにも程がある! がぶり寄りじゃない。ガブリエル。大天使ガブリエル!」


ミドリに生活ペースを乱されてくたくたになりながら、賢一が本業の美学と言語活動の原点を再発見するくだりが、ゆるゆるになりそうな流れを引き締めている。特に美術書を手に古今の名画をめった斬りするミドリと、解説を加えつつその批評眼の鋭さに新鮮さを感じる賢一のやりとりに長々とページを割いた五日目が本作のハイライトでもあった。
ギャグの部分はほとんどが二人の会話の中のかんちがいや小学生の独特な造語感覚を元にしたもの。著者の言葉へのこだわりの顕れでもある。
成分は控えめながらミステリ要素が最後にほんのり加えられて、ドタバタのまま終わらないのも良かった。深水さんは肩書きとしてはミステリ作家に分類されているけれども、本質的にはユーモアやペーソスに味がある、人間観察の眼が確かな作家だと思う。『言霊たちの夜』という言葉にまつわるお笑い作品もあるので、それもリストに加えておく。

高杉晋吾 / 袴田事件・冤罪の構造


今年三月、1966(昭和41)年の事件発生以来実に四十八年ぶりに(!)袴田巌さんが解放された。新聞報道には目を通していたが、袴田さんは地元・浜松の人であり、何か一冊読んでおかねばと思っていた。

     

高杉晋吾さんのこの本、タイトルが変わっていたので気づかなかったのだが、原著は『地獄のゴングが鳴った―無実のボクサー袴田巌』(三一書房、1981年)。袴田事件の冤罪の可能性を初めて指摘したノンフィクションの名著だったのである! 本書は袴田さんの釈放を受け、加筆のうえ新版として復刊した。



【 高杉晋吾 / 袴田事件・冤罪の構造 死刑囚に再審無罪へのゴングが鳴った / 合同出版(344P)・2014年7月(141013−1016) 】


・内容
 袴田事件が、克明な立証によって、冤罪であることを初めて指摘した原点の書、待望の復刊! 江川紹子氏推薦!


袴田事件】 1966年6月30日未明、静岡市(旧静岡県清水市)のみそ製造会社の専務宅から出火し、焼け跡から一家四人が他殺体で発見された。静岡県警は社員寮の部屋で血痕が付着したパジャマが見つかったとして、従業員だった袴田巌氏を強盗殺人容疑で逮捕。袴田氏は無罪を主張したが、静岡地裁は68年、死刑を言い渡し、80年に最高裁で死刑が確定した。世界で最長記録の48年間もの長い勾留が続いたが、第二次再審請求で、静岡地裁は2014年3月27日死刑と拘置の執行を停止する決定を出した。


     


1966年6月30日というのはビートルズ来日公演の初日である。今でもそのときの熱狂ぶりを伝える白黒映像を目にすることがあるが、さすがに古さを感じさせる。同じ日、静岡県清水市(現・静岡市清水区)の味噌製造会社の専務一家四人が惨殺・放火されるという事件が起こった。容疑者として捕らえられた男性従業員は当時三十歳の元プロボクサーだった。無実であるにもかかわらず自白を強要され逮捕、死刑を宣告されたのはジョン・レノンが射殺された年だった。世紀が変わってもなお囚われの身だった彼は、今年三月、静岡地裁の再審開始決定により四十八年ぶりに釈放された。この間の三十三年は死刑執行の恐怖との戦いだった。七十八歳になっていた彼は心身を病んでいた。裁判長はこう語ったのだった―「これ以上の拘置は耐え難いほど正義に反する」。では、正義に反していたのは誰なのか。

 ダウンを奪う武器はクロスカウンターであった。
 彼の試合はKO勝ちというのはほとんどない。しかし早い回のうちに相手をダウンさせている試合は多いのである。KOパンチがないのではなく、彼の計算から、相手を簡単にKOしないのだ。
 それが彼の試合パターンであった。それは彼の自己防衛の知恵でもあった。


警察、検察、裁判所、新聞テレビ。それに(例によって)鑑定結果を擁護する大学教授。公正であるべき機関が結託して、一人の市民を追い詰めていった。ボクサーくずれ。嘘つき。離婚歴あり。貧乏。あらゆる負のレッテルを貼りつけて毎日平均十二時間の取り調べを強行。だが、そうして公表されたシナリオは稚拙きわまりないものだった。
犯行着衣とされたズボンにはA型の血が付いていたが、その下に履いていたパンツに付いていた血はB型だった。上下に留め金のある裏木戸をわざわざ下側だけ開けて(なぜか上側は外さず)わずか30センチの隙間をくぐり抜けたことになっていた。これら素人目にも怪しげな物証と自供はミステリの大家すら思いつきようのない驚天のトリックだったが、実はシナリオを書いた者にも謎解きはできていなかった。修羅場から発見したとされるいくつかの物証は互いに矛盾し否定しあい、侵入・脱出方法は荒唐無稽なアクロバットだった。
社会秩序の安定のために働いているように見せかけて、実は平然と法治社会を紊乱していたのは彼らだった。堕落した彼らは、四十八年もの間、容疑者と彼の家族を苦しめたのみならず、同じように被害者遺族をも愚弄していたのだ(袴田さん釈放の翌日、たまたま事件に巻きこまれなかった遺族の長女が亡くなった)。


どんな手を使ってでも、という警・検察組織の強権的態度に、自分が感じたのは職務怠慢、ただそれだけだ。始めからまともな捜査をする気などなく、手っ取り早く犯人をでっち上げてしまえば、あとはどうとでもなる。一貫しているのは自らの落ち度が露見したとしてもその非を絶対に認めようとはしない恥知らずな不まじめさだけである。
当時この事件に関わった警官、検察官、裁判官、記者の多くはすでに退職したか、第一線を退いているだろう。明らかな不正を知りながら担当者はころころと変わって誰一人まともに責任を負おうとはしないのは、この国のあらゆる場面でいつでも見かける非常識な常識的態度である。
裁判官すら信用できないのなら、どうすればよいのか。世論に訴えるしかない。義憤に駆られて高杉氏はペンをとった。初めから破綻している非論理に論理で応ずるのは馬鹿馬鹿しい苦業でもあったにちがいない。死刑囚に残された時間を思えば実証実験をするのももどかしく、一刻も早く世に問いたい焦りもあっただろう。しかし、必ずや袴田巌を救出する、その気概は紙上にあふれんばかりに表出し、獄中の囚われ人に不屈を呼びかける声は行間に熱くこだまして、本書は確信に満ちた言葉の拳となった。

 私は声を大にして訴えたい。袴田事件は今回、即時抗告をした時点で新たな戦いが始まったのだ、と。
 私は八十一歳であるが、三十三年前に書いたこの著作と、新しい見解を武器に再び新たな戦いに挑むと宣言する。私は、検察が即時抗告をした意味を、本書を読んでいるあなたの権力批判を圧殺し、古い秩序を維持するための構造であると捉える。


この本があって本当に良かった。この事件が冤罪らしいことはずいぶん前から言われていたのだが、薄ぼんやりとした暗い霧を一気に吹き飛ばして、すなわち警察による証拠ねつ造をずばり立証してみせて、袴田さんの無実を初めて公然と訴えたのがこの本だったのだから。
本書が読み物としても秀逸なのは、問題とされた争点を一つずつ論破しながら、袴田巌がどんなボクサーだったかをサイドストーリーとして組み込んでいる点だ。「どんなボクサーだったか」は「どんな人物か」と相似する。ボクサーを蔑んで初めからフェアプレーの精神を欠いた刑事や新聞記者たちには思いもよらなかっただろうが、そこには絶対の真実があった。
いわば警・検察が書いた袴田巌偽物語と対峙するために、高杉晋吾はボクサー・袴田巌の真実の物語をたずさえてリングに上がったのだ。そして渾心のクロスカウンターを撃ちこんだ。結果は誰の目にも明らかだったにもかかわらず、しかし判定が下されるまでにはなお三十余年もの時を要したのだった。一冊の本が不条理の檻から死刑囚を救うきっかけとなったのだった。
あらためて書物の力をまざまざと感じる。読んだあとから言うのも変だが、「読まずに死ねるか」な一冊であり、本年ベストの一冊である。


袴田さん釈放を機に死刑制度再考の機運も高まるものと思っていたが、そうでもなさそうなのは残念。秘密保護法によって、冤罪再発の可能性が再び高まることを思うと、「地獄のゴング」はわれわれの鈍感な民主主義意識への警鐘ともいえるだろう。

菅 淳一 / 横浜グラフィティ


山崎洋子『天使はブルースを歌う』(毎日新聞社、1999年)は、戦後横浜に多数生まれた混血児にスポットを当てたノンフィクション。
1945年八月末、厚木に降り立ったマッカーサーがまっすぐ向かったのは横浜だった。ホテル・ニューグランドが彼の宿舎となり、横浜税関GHQ総司令部が置かれた。関内、本牧に米軍が進駐すると個人住宅や土地建物は接収され、米軍施設が急ピッチで建設されていった。日本政府は米兵向けの‘特殊娯楽施設’をつくり、‘接待婦’として働く日本人女性を集めた。

          

横浜を舞台にした小説を書いていた作家・山崎洋子は、知人から「ブルースが足りない」と指摘されショックを受けた。「メリーさん」や「ゴールデンカップス」をきっかけに、終戦直後の横浜に多くのGIベイビーが産まれていたことを知る。ライブハウス「ストーミーマンデイ」に足を運び、エディ藩、ルイズルイス加部ら、カップスの元メンバーとも知り合った彼女は、根岸の外国人墓地に埋葬されているという混血嬰児のことを歌った歌詞をエディのために書くことになる……



【 菅 淳一 / 横浜グラフィティ / 幻冬舎(224P)・2014年8月(141010−1013) 】


・内容
 不良ってのは、不揃いの“良”って意味だ!最先端のカルチャーが半径5km圏内に集結していた1960年代の横浜。光と影が激しく点滅する街を、轟音とともに走りぬける車の一団があった。その名も“ナポレオン党”。リーダーがトヨタS800を駆って走り出すと、あっという間に30、40台が後ろにつらなり、あうんのカーレースが始まる。永遠に刻まれる、若者たちの鮮烈で繊細なひと夏のグラフィティ。


          


『1967クロスカウンター』の菅淳一さんの新刊なのでノンフィクションだと思っていたら、小説だった。六十年代後半の横浜本牧に実在した「ナポレオン党」という若者グループを題材にした青春小説である。
恥ずかしながら、ナポレオン党について噂には聞いたことはあったが、暴走族の一派ぐらいにしか思っていなかった。クルマ遊びもするがそれだけではなく、六十年代横浜の‘粋’を象徴するファッションリーダー的な集団だったようだ。リーダーのクルマはというと何となくハコスカあたりを連想してしまうのだが、実はヨタハチで、つまりそういうことなのである(どういうことか説明すると長くなるので省略)。ベースの街・本牧を本拠地として、地元では兄貴として幅を利かせていたらしい。本作は、彼らを通してなぜ60'S横浜が特別だったのかを教えてくれる作品でもあった。
“恋とクルマとロックンロール”は「アメリカン・グラフィティ」のキャッチだが、本作はまさにその横浜版という感じである。

 「何やろうか。ベンチャーズでもやろうか」
 「ハハハ、うそつけ。この前のバターフィールドはカッコよかったよ」
 「じゃあ、今日はバターフィールドやんねぇ」


1967(昭和42)年、ティーンエイジの男の子と女の子が主人公。二人とも物心ついたときから常にベースを身近に意識して育った世代だ。横浜大空襲とその後の米軍進駐の激動期を懸命に生き抜いた彼らの親のアメリカへの複雑な感情とは裏腹に、子どもたちはその開放的な文化に吸い寄せられていく。
「フェンスの向こうのアメリカ」とは、横浜や沖縄以外の日本人の見方で、そこに住んでいた子どもにとっては異文化でも何でもない、当たり前の風景だった。横文字の看板や見たことのない食べ物の匂い。ラムネではなくコカコーラ。ラジオやテレビで流れているのとはまったく違う種類の音楽。それらに始めは恐々と、次第に惹かれていく思春期の好奇心が瑞々しく、読んでいて懐かしくもあるのは、多かれ少なかれ、これより後の日本人誰しもの共通体験でもあるからだろう。その先陣が横浜だった。
文明は環境条件に特定されるが、文化は境界線を越えて伝搬し、新しい文化を生む。外の人間は学習して模倣するしかないが、横浜の彼らはライブ体験だった。ナポレオン党やゴールデンカップスはそのアプレゲールだったのだ。


考えてみれば、ハードボイルドやミステリにエキゾチックな舞台としてはよく使われるが、この時代の‘ヨコハマ’そのものを描いた作品は案外少ないような気がする(花村萬月とか。自分が読んでいないだけかもしれない)。横浜だけに伝わる知る人ぞ知る伝説は無数にありそうなのだが…(上記『天使はブルースを歌う』には、絶世の美少年だったルイズルイス加部を想い続けた鈴木いづみの作品が紹介されている)。やはり部外者がうかつには書けない横浜人のプライドみたいなものがあるのかもしれない。
ナポレオン党がただの不良グループではなかったように、ゴールデンカップスがただのGSではなかったように、東京=日本のメディア文脈に同調しない強烈なアイデンティティがあって、それはきっと文章にするのがとても難しいのだ。前年に来日したビートルズ・ブームのまっただ中にR&Bを演奏するバンドは「何だコレ?」と思われたのにちがいなく、その黒っぽいビートやグルーヴ感を伝える日本語語彙すら当時はなかったのだから。
初めての音楽体験が最も強い感動としてその人の中にはずっと残る。この作品の主人公もゴールデンカップで黒く塗られていくのだが、いわゆる「ワル」ではなく、健全な少年として描かれているのが好ましく、彼の感動がストレートにこちらに伝わってきた。

 エイジは彼らの踏むステップを初めて見て、それから再び見たとき、なぜか、そこから醸し出される切なさ、歓喜、愛の渇望、同時に絶望、それらが一緒くたになってあたり一面に咲き乱れていくような感覚を持った。それはこの本牧で踊っていても、その空間は遥か彼方のアメリカを感じさせていたからだった。


先に1969年のフォークゲリラの本を読んだが、この当時、日本にはベトナム戦争反対運動があった。そういう社会的気運の中で横浜の人たちはどんな気持ちでいたのだろうか。
ナポレオン党やカップスは派手な騒ぎをしたかったのではないし、ただ享楽的に生きていたわけでもない。ベトナムに出征していく米兵の姿を日本で一番近くで見ていたのは彼らで、脱走兵もいたことが本書にも記されている。
八十年代のことだが、自分も学生時代に二年ほど横浜に住んでいた。当時の散歩ルートはもっぱら野毛〜寿町〜石川町のタワレコまでで、トンネルの向こうまで足を運んだのは数度。忘れかけていたその後悔を本書は思い出させてくれた。横浜ブルース大学ブルースギター学科生にとって最上の先生は、関内セブンスアヴェニューの最前席で何回も見た憂歌団だった。部屋ではいつもFENを聞いていて、「I Got You, Babe」も入ったウルフマン・ジャックのカセットテープは今も大切に持っている。
みなとみらい博以来、訪れていないので、あらためてゆっくり横浜を歩きたくなった。自分が住んでいた頃には、馬車道で白装束のメリーさんをよく見かけたし、まだ‘リアル横浜’の名残があちこちにあったと記憶しているが、今でも残っているだろうか?

大木晴子(編) / 1969 新宿西口地下広場


【 大木晴子・鈴木一誌 編 / 1969 新宿西口地下広場 / 新宿書房(255P)・2014年6月(141007−1010) 】


・内容
 1969年2月、数人の若者が新宿西口地下広場でギターを鳴らして反戦歌を歌いだした。彼らは3月の毎週土曜日からここに集まり歌をうたい、自らを「フォークゲリラ」と名乗った。一時は五千人を超える人びとを集めたこの集会は機動隊の出動で、7月26日の土曜日を最後に集会不可能となる。本書はこの間の記録を丹念に追った映画『地下広場』(大内田圭弥監督/1970年/白黒/84分)から、1969年という時代の社会世相を読み解く。


          


ストーンズの‘R&R史上最大の三分間’、ホンキートンク・ウィメン。ウッドストックでジミ・ヘンドリクスはアメリカ国歌を阿鼻叫喚のサイケデリックなレクイエムに変えた。オーティスはもういなかったけれど、ジャニスもジム・モリソンもまだ生きていた。レッド・ツェッペリン登場。六十年代後半に青春時代を過ごしたかった自分にとって、1969年はあこがれの年である。
その昭和44年の日本、新宿に「フォークゲリラ」がいた、というのは断片的には聞いたことがあったものの、実際にどんな現象だったのかはまったく知らなかった。ただその語感から、路上ミュージシャンによる反体制活動をうっすらと想像していたにすぎない。
本書を読み、付録のドキュメンタリーDVDを観て、自分の抱いていたイメージとは全然違っていたので、かなり戸惑っている。


ベ平連の少数の若者が新宿駅西口広場でフォークソングを歌い始めた。毎週土曜の夜、彼らは人の行き交う雑踏に立って歌っていた。初めは足を止める人は少なかったが、だんだん取り巻きが増え、やがて大勢が一緒に歌うようになり、大きな音楽集会になっていく。警官が配備されると、それがかえって話題を集めて数千人が広場を埋めるようになった。当局は機動隊を動員して強制排除に乗りだす。広場が通路に名称変更され、道交法によって取り締まりが強化されると群衆は消えた。この数ヶ月の出来事をフォークゲリラだった当事者の回顧を中心にまとめたのが本書である。
まず、ベ平連がらみの運動だったことに距離を感じた。自分は(六十年代に開高健と親交があったとしても)小田実という人をあまり好きではないので興醒めした。
それから、「非暴力」を唱えながら、(正当であろうと不当であろうと)権力に実力行使の口実を与えてしまった時点でこの運動は負けだったのだろうと感じた。自然発生的な集団エネルギーが膨張していけば、取り締まる側も取り締まられる側も群集心理とエスカレーションの轍にはまって衝突は避けられなかっただろう。


DVDに収録されているのは、これまでにほとんど上映されたことがないという自主制作映画『'69春〜秋 地下広場』。フォークを歌い、議論する無数の一般市民の顔が映っていて、現在なら撮影さえできなかっただろう。
この集会は歌を歌った後、見ず知らずの他人同士が議論をする場でもあった。群衆の中にいくつもの議論の輪ができて、若者と、彼らより少し年代の上の者たちが顔をつきあわせて真剣に話し合っている。場所が場所だけに音声は聞き取りにくいが、それは現場の対話者も同じだったであろう、互いの顔がとても近い。相手の声を聞き取ろうとして、必ずしも理路整然とはしていなさそうな主張にもじっくり耳を傾けている姿が印象的だ。場としては反体制の若者側の圧倒的なホームである。思想はともかく、立場も人生経験も違う人たちだから話は噛みあわないのだが、それでもアウェーを承知で話をしようとそこに入っていった年配者たちが、実はこの記録映画で最も貴重な存在なのではないかと思いながら観た。
機動隊が群衆を追い散らし、ジュラルミンの楯で市民を殴りつけるような場面もある。パニック状態の群衆の中から何人かをしょっぴいたところで何になるのだろうとあきれるのだが、大衆運動としてやはりこれは失敗だったのだろう。
この年暮れの総選挙で自民党は大勝、社会党はまだ野党第一党ながら四十議席を失った。その事実を知るにつけ、このフォーク集会は何だったのだろうと思うのだが、一部の熱狂が選挙の投票行動とは必ずしもリンクしないのは、最近の選挙でも見られることである。


阿武隈共和国独立宣言』の初めに、その著者・村雲司さんが新宿でスタンディング(メッセージを書いたプラカードを持って立つ)をしていることが書いてあり、かつてその場所でフォーク集会があったということも述懐していた。
当時「フォークゲリラの歌姫」と呼ばれた大木晴子さんはあれから45年後の今もその場所に立っていて、村雲さんとはスタンディング仲間らしい(本書には村雲さんの詩も掲載されている)。大木さんの現在の活動の方が自分には興味深いのだが。
半世紀近くも前の全共闘とか安保闘争とかを自分はまったく知らない。「神田川」的世界が生理的に嫌いな、始めからしらけきっている世代である。公共の場で自国の行く末を熱っぽく論じあう人々の姿は新鮮で胸打つものでもあったが、フォークゲリラには少しもシンパシーを感じなかったのは自分でも意外なほどだった。
佐世保ノンポリ高校生・ヤザキケン少年が天使レディ・ジェーンと妖婦アン・マーグレットの気を引くためにバリ封やアートフェスティバルを敢行する村上龍の青春小説『69(シクスティナイン)』は完全なフィクションだが、この実話『新宿西口地下広場』も自分にとってはフィクションのようにしか感じられなかった。