鈴村和成 / ランボーとアフリカの8枚の写真

昨年読んだ山田正紀イリュミナシオン』の著者後書きに、作品のインスピレーションになったのが『ハイペリオン』と鈴村和成『ランボー、砂漠を行く―アフリカ書簡の謎』(岩波書店)の二冊だと書いてあった。鈴村和成さんというとランボー関連書籍を探すと必ず一冊二冊は目に止まるランボー研究者であり仏文学者である。
金子光晴ランボーの足跡の追ってインドシナを旅した、その光晴の旅を辿って鈴村氏もまた旅に出る、というような紀行文がたしか昨年だったか出ていたと思うが、店頭で見つけたのはこちらだった。


【鈴村和成 / ランボーとアフリカの8枚の写真(285P) /河出書房新社・2008年(091230-100105】


・内容紹介
 1883年アフリカのハラル。ランボーは高価なカメラ機材をはるばるヨーロッパから取り寄せ、わずか八枚の写真を撮っただけでカメラを放棄する。この事実にまつわる数々の謎を追跡し、アフリカのランボーの実相と「イリュミナシオン」の詩人の本質に迫る、著者渾身の力作。


          


‘砂漠の商人’になったランボーのアラビアからエチオピアへの行程を辿った紀行文なのかと思うとちょっと違う。なんというか、疑似小説形式とでもいうか。エチオピアで失踪したランボー研究者を探しに彼の妻と後輩の同僚がアフリカに旅立つ。ランボーの影を追う者と、その男の影を追う者たち。同僚は自分が探しているのが先輩なのかランボーなのか、次第に混乱していく…三人が巡る土地にまつわる生前のランボーの動向と研究論文が織り交ぜられて三人の追いかけっこの物語が展開する。


エチオピアまで高価なカメラ機材をわざわざ取り寄せてランボーは写真を撮った。残されているのは自身のポートレイト三枚を含むわずかに八枚。ランボーが撮ったのは本当にこれだけなのか?物語は現実(ノンフィクション)から隠された一枚の写真を追うフィクションへと、そしてまた現実に戻ってと虚実入れ乱れて進行する。
失踪した男の手掛かりは、男が書いたランボー論だけ。アデンからハラルへ。ランボーを追う男の道程はまるで誰かに導かれ吸い寄せられているかのようにアビシニアへと向かっていた。
男が道中に書いているノートが「ランボーとアフリカの8枚の写真」というタイトルであり、書くという行為が現実に追いついている奇妙な感覚(書きながらもすでに書かれている、または誰かに書かされている)に囚われていく。


物語の中で引用されるランボー学者(ランボー・マニア=「ランバルディアン」という)の論文が鈴村氏の過去の著作らしいのは読んでいて予想できたのだが、個人的には小説部分と論文引用部分で読むのに要する集中力が違うので、構成としては面白いけど、正直読みづらかった。(正月だからたっぷり読む時間があると思っていたら、意外にあれこれ忙しかった事情もあって、こちらのモチベーションがイマイチだったのもある)
とはいえ、未発見だったランボーの写真が見つかるという小説部分は(仮定だとしても)面白かった。
ランボーの詩作における企みを自分の小説作品にも生かそうとする書き方が(ランボー至上主義の少々常軌を逸したこだわりも含めて)何となく山田正紀イリュミナシオン』と似た匂いがした。学者・研究者の遊び心かと思いきや、ただのランボー狂になってしまっているのだ。ランボーが見た空、ランボーが感じた風…。ランクルで砂漠地帯の‘ランボー・ロード’を往くだけで「風の足裏を持つ男」のスピード感を同じように感じるだなんて、完全なランボー中毒。ランボーに心酔している自分に酔っている重症のランボー病患者。自分はとてもとてもそこまではいかないが、でも、わかるよ(笑)


手紙の中の手紙の中の手紙…とか、夢の中の夢の中の夢…といったランボーの企み。それを実践しようとすると、現実の中の現実の中の、また現実の…という現実を構築しなければならない。鈴村氏はこの作品で、いわば作中作の形で「ランボーとアフリカの8枚の写真」の中の「ランボーとアフリカの8枚の写真」の中の…という迷宮を示してみせる。
二十歳で詩作を放棄したランボーは、現実の生こそ詩であることを体現しようとしてアフリカに行き、膨大な書簡を残したのか。
実は彼は本当にただの商人になって仕事に没頭しただけであって、数多い手紙も商売上の実務連絡にすぎない可能性は高い。だけど、その「アフリカ書簡」を芸術的試みとして一個の作品として捉えなければ気がすまないランバルディアン。ここにも「あってもなくてもいい」不毛に懸けようとする人がいる。
本作では「アフリカ書簡」が研究対象であって、詩の引用以外には若き日の詩人ランボーにはほとんど触れられていない(といっても彼は37歳の夭折だった)。今年はもう一、二冊はランボー本を読むつもりだ←新年の抱負の一つ。


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話は飛ぶ。アデンというとポール・ニザン『アデン・アラビア』があるが、ここはイエメンでアジアなのだった。アラビア半島西南端だから、まあアジアなのだろうが、これまでアフリカだとばかり思っていた。ちょうどこの本を読んで世界地図のアラビア−アフリカの所を見てもいたのだが、文化的にはアフリカ圏なのだろう。
今日、代表が彼の地でアジアカップ、対イエメンを戦う。またぞろアメリカが鼻を突っ込んだせいで現地はきな臭い政情のようだが、クロアチアvsセルビアのような殺気立ったプレッシャーとは無縁のはず。むしろ、そんな状況でもサッカーが行われることを喜びたい。


それともう一つ。年末にBS「世界のドキュメンタリー/ジョン・レノン『イマジン』」を観た。その中でジョンが「昔は国境などなくて自分が行きたい所に自由に行けたのに、どうしてこうなってしまったんだ」みたいなことを言っていた。
100年前には多分パスポートなど持たなくても国外に行けたのだ。パスポートなんて物すらなかったかもしれない。フランスを南下してアラビア半島西岸を通ってアデンから紅海を渡りアフリカ大陸へ。リチャード・バートンキリスト教徒として初めてエチオピアに入ってから十年か二十年しか経っていない頃。19世紀の健康な冒険志向と想像力の自由が天才詩人の他にも多くの芸術家を生んだのだと、あらためて思う。


あともう一つ。やはり昨年末に観た映画『パティ・スミス:ドリーム・オブ・ライフ』の中に、パティ・スミスがシャルルビルのランボーの墓を訪ねる場面があった。墓は柵で囲まれていたが、彼女はそれを乗り越えて入っていきランボーの墓に触れたまま、じっとたたずんで動かないのだった。あぁNYパンクの女王にしてロック詩人の彼女もまた……
パティ・スミスの健在を知る以外にそんなに良い映画ではなかったけど、ここは格別に印象的だった。いつか絶対マネしてやる!←人生の抱負の一つ。