斎藤健一郎 / 5アンペア生活をやってみた


斎藤健一郎 / 5アンペア生活をやってみた / 岩波ジュニア新書(217P)・2014年9月(141129−1201) 】


・内容
 電気に頼らない暮らしをしたい。東日本大震災をきっかけに節電生活を決意した記者が始めたのは「普通の生活はできなくなる」という5アンペア生活。エアコンや電子レンジはもう使えない。冷蔵庫やテレビは? 身の回りにあふれる電化製品と決別して試行錯誤の末に辿りついた本当に豊かな生き方とは。



     


福島の原発事故以降、「電気」というエネルギーがどのようなものなのか考えなおした人は多いと思う。自分の家に送られてくる電気がどこの発電所で作られたものなのか、火力なのか水力なのか原発なのか、それすら知らされることはなく、また電力会社を選ぶこともできない。これだけ商品が多様化し情報開示が求められる現代に、電気という商品は独占的でその品質は不透明なまま流通していた。
脱原発の声が広まっていても、いざ再稼働されれば嫌でもその電力を使わされる。あれだけの災禍を経験しながら嫌悪感と罪悪感、不信感を抱えたままで、また汚れた手をつながなければならないのか?
ならば電力そのものを使わないというパーソナルな選択をしてしまおう。「脱・原発依存」を飛び越えて、「脱・電力依存」へと舵を切った人がいる。

 稼働停止。生まれてからずっと、24時間365日、休まず動き続けているのが当たり前だった冷蔵庫を休ませたことの影響は、想像以上に大きいものでした。


著者は東京出身の大手新聞記者。郡山支局に勤務していたときに3.11に遭い、自身も被災した。原発事故の取材を通して、「コンセントの向こう側」を考えるようになり、無思慮に電気を使ってきた自分の生活態度をあらためようと決意する。電力会社との契約を最も少ない5Aに変え、エアコンや電子レンジなど消費電力500Wを越す家電品をいさぎよくあきらめた省エネ(少エネ)生活を始めた。
短期に異動転勤がある単身世帯であり、記者として生活体験記事のネタにできるという側面もあっただろう。しかし、原発には反対しながらこれまで通りの浪費生活を続けることはできないという強い意思が原動力となった。
もちろん始めは不便に感じる。だが知恵をしぼって熱さ寒さを克服する方法を発見していく。そうして一ヶ月の電気代はたちまち300円以下になったのだが、消費電力を減らすことはけして生活水準を下げることではないことがよくわかる。それは電気との関わりのみならず、それまで当たり前のこととしてきた生活全般をデザインしなおすことだった。


今春の消費増税後、個人消費が冷えこんでいると政府や経済研究所員らは解説する。彼らは右下がりのグラフを指して、それを消費者が賢くなったからだとは絶対に認めない。そして再び数値を上げるために打ち出すのは、あいかわらず「産めよ殖やせよ」的な、景気の浮揚感を演出する大砲巨艦主義的な経済政策である。要らない物はもう買わないのだという市民の生活信条を読めない(読もうとしない)のだろう。
自分だって利潤を追求する一企業に勤めている以上、そのシステムの中に生かされているわけだが、個人としてはもうそんなサイクルからは抜けようと思っている。つつましく暮らそうと思っているのに、その生活が核技術に支えられているなんていうのはまっぴらごめんなのだ。 この道しかない? 自分で責任を取ろうとはしないくせに勝手なことを言うものではない。道はいくつもあるはずだし、誰かに押しつけられる筋合いもない。汚れたメインストリートより、暗く細くとも安全な道を歩くのだ。

 ふくれ上がり伸びきった大量生産、大量消費、大量廃棄の社会からいち早く抜けて、エネルギーや物質文明に頼らない新進の道を自らの足で踏みしめ、切りひらいていく。それも、眉間にしわを刻むような辛苦や忍耐をするのではない、優雅に、豊かに、楽しく節電生活を歩んでいきたい。


様々に工夫を凝らして5A生活を軌道に乗せた著者は「自産自消」の自家発電システムの導入まで始めている。自分が使う分だけの電気があればいい。少し足りなくても自分が我慢すればいい。誰に気兼ねする必要はなく、何ものにも加担せず、誰かの犠牲の上に立たなくてすむのなら、何より精神衛生に良さそうである。
たとえ全消費電力のなかで個人の省エネ努力は微々たるものだとしても、それでもいいのだ。国や電力会社を動かそうというのではない。あくまで個人の自己裁量と責任において、さりげなく電気を「選ぶ」。特別なことのように思えるのだが、読んでいるとそう難しいことではなさそうである。たぶんダイエットと同じで、こういうことは楽しく軽やかに行われなければならないのだろう。
「真の文明は山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」 ― 憲法で保障される健康で文化的な生活は、自分の手で実現すべくクールに努力する。依存からの脱却は政策に縛られない自由な解放感に満ちて快適なものであるように映る。

ポール・アダム / ヴァイオリン職人の探求と推理


【 ポール・アダム / ヴァイオリン職人の探求と推理 / 創元推理文庫(414P)・2014年5月(141123−1125) 】
【 ポール・アダム / ヴァイオリン職人と天才演奏家の秘密 / 創元推理文庫(408P)・2014年11月(141125−1128) 】


THE RAINALDI QUARTET by PAUL ADAM 2004
PAGANINI'S GHOST by PAUL ADAM 2009
訳:青木悦子


・内容
 ジャンニはイタリアのヴァイオリン職人。ある夜、同業者で親友のトマソが殺害されてしまう。前の週にイギリスへ、“メシアの姉妹”という幻のストラディヴァリを探しにいっていたらしい。ジャンニは友人の刑事に協力して事件を探り始めるが、新たな殺人が……。名職人が、豊かな人脈と知識、鋭い洞察力を武器に、楽器にまつわる謎に挑む!


     


NHKスペシャル「至高のバイオリン ストラディヴァリウスの謎」を見たのは昨年の11月3日。今年の11月3日は五嶋みどりさんの番組をやっていた。‘文化の日はヴァイオリン’という公式がNHKにはあるのだろうか。自分はクラシック素人なので、プロのソリストはみんなストラドを使っているものと思っていたのだが(それしか知らない)、五嶋さんの愛器は「グァルネリ・デル・ジェス」だった。
本作はイタリア北部の街クレモナに暮らす初老の弦楽器職人が同業の友人の殺人事件に関わりながら、幻の名器の行方を追うことになる音楽ミステリーで、そのグァルネリも重要な役割を担って登場する。三、四百年前も昔の木工品に魅せられ血道を上げる古楽器ディーラーやアンティーク蒐集家、それに贋作の存在を絡め、ヴァイオリンという楽器の神秘的、あるいは悪魔的な魅力がぞんぶんに伝わってきた。
雰囲気は― 『パリ左岸のピアノ工房』と『バイエルの謎』のヴァイオリン版、それに『古書の来歴』の成分濃いめ、という感じで、二冊とも大いに読みごたえがあった。

 踏んだ! わたしは軽蔑の念を抑えるのがやっとだった。その人物はストラディヴァリのヴァイオリン、すなわち二百万ユーロの価値はあろうという、三世紀のあいだ無傷で生き延びてきたヴァイオリンを所有していたのだ。なのにそれを踏んづけたとは。


創元の「推理」文庫に収められてはいるが、事件の謎解きよりも主役は‘幻の名器’である。戦争と政変のヨーロッパの歴史の中で失われてしまった数々の名匠の逸品。ストラディヴァリは生涯に千百余りのヴァイオリンを製作したが、現存して記録されているのは六百五十挺ほどで、四百五十挺は消息不明なのだという。おかげで世界中に贋作やレプリカが出回っていて、それ以上に真偽定かではない怪しい噂話は絶えることがなく、こういう小説も書かれるというわけだ。
二作目ではパガニーニが実際に愛用したグァルネリ「イル・カノーネ」(カノン、“大砲”)と、彼が所有していたと思われる小型ヴァイオリンの消息が事件の縦糸として扱われる。宝石を散りばめた黄金のケースが見つかる。それに収められていたのは、ダイヤモンドやルビーやエメラルドが満艦飾のミニチュアヴァイオリンだった……! それは誰の依頼で作られ、誰の手に渡り、そして今どこにあるのか? パガニーニの未発表曲の存在とともに、国境を越え、ナポレオンの妹やロッシーニも絡んだ壮大な歴史劇が秘められているのだった。
サイドストーリーとして、コンクールに優勝して将来を嘱望される天才若手ヴァイオリニストの悲哀も並行して綴られていく。彼は親の厳しい英才教育のために、アルファベットを覚えるより早く楽譜を読めるようになり、普通の子どもとは違う人生を義務づけられている。パガニーニもそんな青春期を過ごしたのだった。



そうした歴史と音楽にまつわるエピソードがてんこ盛りでお腹いっぱいになるのだが、そのうえさらに六十代の主人公ジャンニのモノローグが読ませる。「幸福な記憶は不幸な記憶よりつらいものである」 「人間は回復力旺盛な種族なのだ」等々、ヴァイオリン製作と修復を生業として半世紀を実直に生きてきた男の言葉には箴言めいた説得力があった。妻に先立たれて人生の最終コーナーを回った彼の孤独を慰めるのも、また音楽なのだった。 
ヴァイオリンは展示物でも装飾品でもなく、誰かに弾かれ、その歌を聴かれるべきだという純粋な彼の態度は、彼を巻きこむことになった人間の欲望に端を発する事件への、現在の音楽業界の暗部への、まっとうな批判としてさりげなく機能しているように見えた。
ただ、彼があまりに分別くさく、ストーリーとしては彼の博学な音楽知識と楽器鑑識眼に頼りすぎのように思わないでもない。

ストラディヴァリの楽器は綿密に作られ、どんな小さな部分も注意がゆきとどいている。グァルネリのほうは ―とりわけ“大砲”は― もっと粗削りで派手だ。しかし外見にだまされてはいけない。うわべの飾りは違うかもしれないが、その下ではどちらも天使のごとく歌うのだ。


芸術に対するジャンニの清廉な態度は、イタリア人のリアリズムとはちょっと違う感じがしたのだが、これを書いたのはイギリス人なのだった。イタリアを舞台にしたイタリア人の物語だが、それをイギリス人が書く。世界的に秀でたヴァイオリニストも作曲家も生みはしなかったが、クラシック音楽界において英国が果たしてきた役割みたいなものを感じさせる作品でもあった。
先のNHKスペシャルでは、ストラドの音響をデジタル技術を駆使して科学的に解析したり、ボディを完全に復元してみたりしていた。3Dプリンタで完璧なレプリカを複製することすらも現在では容易だろう。しかし、ストラディヴァリが使ったと思われる木材を使ってまったく同じ寸法で同じ構造強度で作っても、鳴る音はちがうのである…… この謎、不可侵の聖域とも言えそうな謎は、二十一世紀の科学技術をもってしても解明できなさそうなのだ。弾き手や聴き手の環境のせいかもしれない。現代の空気中には十八世紀の空気には含まれていなかった「音」に有害な不純物が混ざっているのかもしれない。
人間が宇宙に飛び出す時代に、数百年前の松と楓と膠とニスで出来た木製楽器を越えることができない。そういう神話は永遠に残しておけばいいのである。物語のネタとして。
一冊目を読んでいて、これは青柳いづみこさんの大好物、『六本指のゴルトベルク』的な作品だなと思っていたら、二冊目の解説は(やっぱり!)青柳さんが書いていた(笑)。

エスパルス2014:天皇杯準決勝 / この道


【 11月26日 / 天皇杯準決勝 : 清水 2-5 G大阪 / ‘味スタ劇場’ 】


週末のリーグ戦をふまえてどういうメンバー構成で臨むか。ガンバも主力を休ませるのではないか、だとしたら必ず勝機はある、「もしかしたらアジスタ劇場も!?」と裏を読んだつもりで勇んで参戦したのだが、えげつないスタメン表を見て驚いたのだった。「話と違うじゃないか!」― もちろんそんな話など初めからなかったのだが。
決勝で対戦するのが昇格プレーオフまで戦うJ2チームであることを考えれば、ガンバにとってはここが‘事実上の決勝’。まずはナビスコ杯に続く二冠めの権利を確保して獲得賞金を上積みする。健太お得意の「費用対効果」という言葉が脳裏をよぎった。


          
          


加賀美と高木善朗のゴールはエスパルスを勇気づけた。
が、後半はフィジカルで段違いに勝るパトリックにことごとくボールを収められて、なかなかラインを上げきることができなかった。石毛と拓磨でボランチを組んだのだが、ここには一人タフな専門職を置きたかった。


          


この天皇杯三試合はノヴァコヴィッチ抜きで戦った。いずれの試合でも機動力をいかして(速い、ではなく)早い攻守からゴールを奪った。大榎がシーズンを通して本当にやりたいサッカーは、この日のユース組が中心になって見せたものだろう。そして、そのアジリティの高さは日本代表が目指すところと一致する。最近どこかの首相がやたらと「この道しかない」と口にしているが、エスパルスには確かに進むべき「この道」があり、それを表現できる理解者たちが集まっている。大榎の哲学がチーム全体に浸透したエスパルスが見たい。来シーズンJ1でそれを見せるために、そしてリベンジの舞台に上るために、今シーズンのラスト二試合がある。「もう少し積極的にプレーしていれば…」という談話はもういらない。


          
          


格負けした試合ではあったものの、出場機会に恵まれない若手が片鱗を見せた試合でもあった。タイトルを目指すうえでは、「漁夫の利」的な、千載一遇のチャンスにも思えたのだが、残留争いをしながら勝ち残れるほど甘くはなかった。
来季、北川が加わって、わずか一つか二つのFWにユースから昇格の三選手(柏瀬、加賀美、北川)が顔を並べることになる。ノヴァコヴィッチの去就はわからないが、長沢がいて瀬沼、金子もいてレンタル組もいる。選手層の面で、明らかにダブついてるポジションと控えが薄いポジションの差が大きすぎる。選手間の残留争いをもっと厳しいものにして、チーム構成も一新されなければならないだろう。
そして真に頂を目指すのにふさわしい、大榎ならではの、「これぞ清水」というわれらのチームを作りあげて、2015年こそ旋風を起こそう。あのカッコいい黄×橙の新ユニフォームはそのためにデザインされたのだから。
負けたけど、ますますエスパルスが好きになった。これからも「この道」を行く。

エスパルス2014:32節 / 茨の道


来シーズン、松本山雅がJ1昇格する。反町監督に鍛えられて、犬飼智也は今季ここまで41試合フル出場。特筆すべきは6得点を記録していることだ。石毛、柏瀬、負けてるぞ!


ナビスコは健太ガンバが優勝。広島に逆点勝ちした決勝の記者会見。
健 「(PKで0-2になったときは) 持ってねえなぁ、また岩下かよ〜と思いましたね(笑)」


この名古屋戦のあと、中三日で天皇杯準決勝がある。リーグ大詰めのこの時期にウィークデー開催で試合があることに異論は多いだろうが、それはリーグ制覇と三冠を目指すガンバも同じ。エクスキューズを口にした時点で負けである。だから全部勝てばいい。名古屋に勝ち、柏にも勝って、甲府にも勝って、天皇杯も勝とう!(ガンバに勝てば、決勝の相手は石崎監督の山形か、兵働がいる千葉である。バトル・オブ・シミズは終わっていないのだ)



【 11月22日 / Jリーグ第32節 : 清水 2-2 名古屋 / ‘失意のドロー’ 】


ノヴァコヴィッチスロベニア代表として16日のユーロ予選・ウェンブリーでのイングランド戦にフル出場した(ここまで四試合3得点、スロベニアのエースとしてグループ二位のチームを引っぱっている)。プレミアの猛者たちと闘ってきた彼のコンディションが気になったのだが、そんな心配は無用だった。「自分が絶対に残留させる」― スパイクをオレンジ色に変えてアイスタのピッチに立った彼はその言葉どおりの仕事をしてみせた。


          
          
          

だが、彼の周りの大前、高木俊、六平、竹内には自分が打開する、決めてやるという気概が欠けていた。自分の目には欧州サッカー誌風に評価するならこの四人はせいぜい4点、そろって不合格だった。この日、この重要なホームゲームを戦うのに不適格だとすら感じた。この組み合わせだと90分間常時50キロの低速、安全運転サッカーしかやらないのではないか。次節は総入れ替えでいい。
前半にはまだ裏を取ろうとする動きがあった。しかし、縦のボールを入れない。他人任せに足下から足下へ。そんなに今日の名古屋の守備はタイトだったか? プレッシャーはきつかったか? 相手が十人になっても、そんな身分ではないのに悠長に殿様サッカーを続けてドローに終わった。


こっちのGKは二流なのだから無駄にセットプレーを与えてはならないし、DF裏に蹴らせるのも御法度なのは厭というほどわかっているはず。またしてもつまらない失点を追いかける展開。結局、相手におつきあいするいつもの名古屋戦が再演されて、勝ち点2をみすみす逃した。
一勝の重み、一点の重みを十二分にかみしめるシーズンになっているのに、現時点でこんなゲームをやっているのは順位相応ということか。


          


2010年健太エスパルスのラストイヤー、清水はリーグ最終節のガンバ戦を0-3で落とすと、年末の天皇杯準決勝で3-0でガンバにリベンジして決勝進出した。三週間もの中断期間のせいで、自分の中では完全に手前勝手な楽観的妄想が出来上がっていた。もちろん26日のガンバ戦には3-0で勝って、健太に「やっぱり持ってねえ」と思わせてやるのだ…… そんな幻想も今日の低調な内容を見せられると虚しく冷めて、余計に悔しくなってくる。
今季はあと180分しかなくなってしまった。清水に残されているのは、残留確定&天皇杯制覇か、その逆のWの悲劇か、二つに一つのストーリーなのかもしれない。ここまで苦しめられてきたのだから、最後は倍返しで終わらせるつもりでいたのだ。もう天皇杯決勝のチケットは買ってあるのだが。

星野智幸 / 未来は記憶の繭のなかでつくられる


星野智幸 / 未来は記憶の繭のなかでつくられる / 岩波書店(238P)・2014年11月(141118−1121) 】


・内容
 「過ちは過去を忘れることから始まる。私は過去を、未来の中に埋め込んでおきたい。この本は、未来に対する仕込みとしての過去なのだ」 読むべき小説がある。待たれる言葉がある。居るべきところがある。持つべき心がある ―忘れないために、真に自分を取り戻すために、生きるために! 小説界のファンタジスタ、待望の初エッセイ集。
身辺雑記、社会時評的な思索、旅の記録、文学をめぐる断章、サッカー…。1997年にデビューしてから現在に至る17年間に書いた小説以外の文章を選り抜いて収録。


     


今年刊行された星野智幸さんの傑作『夜は終わらない』は11年の震災直前に書き始められた。岩波書店のWEB連載《3.11を心に刻んで》には、パブロ・ネルーダの詩を引いて 「私たちの一夜は長く、いまだに明けません。」と記していた。あの奇妙な男女の呪詛に満ちた語りの応酬は、招きよせた死者たちの言魂に耳を澄まそうとする儀式空間でもあったのだ。
震災のパニックにみまわれながら紡がれた物語は読書の愉悦溢れる作品となったが、著者にとってはある種のドキュメントであったのかもしれない。
本書は星野さんがこれまでに新聞雑誌等に寄稿した随想を年代順に並べた選集。1998−2014の間に発表された文章が集められている。

 もうたくさんなのだ。言論が、現実から離陸し、現実を脅かさない領域で力関係を作り上げ、白熱していくことは。そのような言葉のあり方が原発事故の起こるこの社会を作った、という後悔が私から言葉を奪う。


日々の仕事と雑事に追われて過ごしていると、いま自分が生きている社会がどんな状態なのかわかりにくいものだ。この国は本当に民主主義国家なのだろうかと首をひねる現実を目にしながら、その思考を深めるだけの時間の余裕を持てずに本来語られるべき言葉は封印されていく。言論の規制と自粛の隙間に排他的な暴力志向が侵入する。とりあえず選挙には行くけれど、それだけでわれわれはわれわれの国民主権を実践できているのか。基本的人権の遵守を監視できているのか。
ホームレスや自殺者、無縁社会といったマイノリティの問題に強い関心を寄せて発信を続ける星野さんの文章を読んで、この社会の実相を知らされることは多い。自分には縁遠いものと望遠しがちな現象が、実は自分の生活環境と地続きなのであり、けして彼らが枠の外の存在ではないことに気づかされる。その区切りの枠線が未成熟な弱さによって引かれていることも。


少ない時間をやりくりして読書しながら、どうして自分はこんな本を読んでいるのかと思うことがいまだにある。小説にしろノンフィクションにしろ、自分の実生活に何も関わりがなく、仕事にも役立たないとわかっていて、なぜ読むのか? その答は本書の中に見つけることができる。星野智幸が小説を書く理由は、自分が読書する理由とたぶん同じなのだと。
世界中に無数ある書物の中から一冊を選ぶ行為に始まる読書は、個人の自由で能動的主体的な行動である。そして読書は「よく聞く」ことでもある。文字にこめられた祈りや叫びを感じ取ろうとする作業は楽なことばかりではなく、むしろ苦痛を伴うことの方が多いかもしれない。しかし、その労苦(それは絶対に民主主義的態度である)を通じて自分がつかみ取った言葉は、世界唯一のものとなるだろう。
われ知らず本の世界で行っているそんな作業を、少しずつでも現実の社会生活で、獲得した言葉の行動への変換として実行したいものである。

 私からすれば、他人がどのようなことで怒り悲しみプライドを傷つけられるか、感じることのできる感性は、言葉を読みとる作業、小説を読みとる作業と密接に結びついている。己の存在を賭して小説を読むことが、他人への想像力を働かせる。その想像力を封じたところから、暴力は始まる。


星野智幸さんと自分は同年代の生まれなので、過去へと遡る形で収められている本書の文章の端々に「新人類」「モラトリアム」と呼ばれた同世代感覚を感じることができたのも嬉しかった。バブルの時代にレールに乗ることなく自主的な選択をした彼と自分とはまったく違う人生だが、「SIEMENS」といえば即座にレアルのユニフォームを連想してしまうあたり、自分と似ているところがあるようにも感じたのだった。
八月六日の原爆死没者慰霊式典、被爆者遺族の面前で平然と昨年と同じスピーチをした現首相の軽率な言語感覚は情けないほどだ。政府と国民の信頼関係は、まず言葉から始まるはずだ。一方、星野さんは「文学」へのこだわりと、(それが正しいか正しくないかではなく)自分の一言一句に対する自負と責任感において信頼のおける作家であり、「われらが世代最良の精神」を持つ大人の一人だと思っている。もちろんそう言うからには、こちらは想像力を駆使して作品に対峙する厳しい読者であるべく努力するつもりだ。
今日自分が読む本が、明日星野智幸が書く物語へとつながっていくと信じて、今夜も本を開くのである。

ジャン・ジュネ / 泥棒日記


朝吹三吉が翻訳したものを読んでみようと思い、名訳といわれる『泥棒日記』を持っていたのを思い出した。押し入れ奥にあったのは、学生時代に古本屋で買った(たぶん100円か150円)昭和三十五年の第八刷、定価は350円。持っていたということは、読んだことがあったのか。


ジャン・ジュネ / 泥棒日記 / 新潮社(350P)・1953年(141109−1114) 】


JOURNAL DU VOLEUR by Jean Genet 1949
訳:朝吹三吉


     


ページを開いて、「ああ、これか…」と読めなかった記憶が蘇った。画数の多い、見慣れぬ旧漢字ばかりの観念的な文が小さな虫の行列のように見えて、始めの数ページで放り出したのだった。盗みと売淫を繰り返す青年の犯罪記かと思いきや、冒頭から徒刑囚の告悔めく哲学的な内省文が続いて、目が痛くなる。二十何年前と同じ理由であきらめそうになったのだが、それでは自分がちっとも進歩していないことになる。かなり手強いが、わからなくても読もう、とにかく完読だけはしようと、数年前に『嘔吐』を読んだときのような決意をした。
視覚情報が脳に伝わってこない。読むというよりは、ただの目の運動。老眼で視力が落ちているところにこれはきつい。
本書が読みにくい理由の一つは、まったく章立てされていないことにもある。たださえ読点でつなげられた一文が長くて難解なのに、文章の区切りが全然ないので、方角すら定かでない代わり映えのしない景色のなかをひたすら彷徨っているようなものである。

たとえ彼等が、それが人に害悪を与えるということによって或る行為を嫌悪すべきものであるとわたしに証明し得るとしても、ただわたしだけが、それがわたしの裡に湧き上らせる歌によって、それが美しいかどうかを、それが優雅であるか否かを決定し得るのだ。人は決してわたしを正道に連れ戻すことはできないだろう。人が為し得ることと言っては、ただわずかに、わたしの芸術的再教育を企てることだけだろう― とは言えそれも、美が二人の人物のうちの優者によって証明されるものならば、教育者の側は、私の主張に説得され、帰依する危険を覚悟する必要があるだろう。


盗みをしながらヨーロッパ各地を放浪し、獄中生活も数知れず経験したジャン・ジュネ(1910−1986)が1949年に発表した青年期の自伝的作品。朝吹三吉の邦訳は1953(昭和28)年刊。読んでいるうちに、何となくだがこの人の「怪物的例外」ぶりは見えてきた。
「娼婦の子」と呼ばれて社会秩序からつまはじきされて育った孤児が、盗人稼業に身を浸して世間に押しつけられた「泥棒」のレッテルそのものの悪党になっていく。男色家を剥いで金品を強奪する彼に善悪の概念はなく、たび重なる逮捕拘留にも更正の意志はなく、その悪行は自分を卑賎な存在と蔑んだ社会に対する反抗や復讐を動機としているのでもない。まったく自然の摂理に従っているだけであるかのように、それが芸術的欲求の実現であるかのように振る舞い、語る。
最も屈辱的な告白こそが、最も豊饒な告白なのだ― として美と詩と自由を材料に聖性を獲得しようとする、ある種の芸術論として回想されているこれは、まさしく「人間に本性は存在しない。人間はみずからがつくるそのものになる」というサルトルの思想の、「人間」を「泥棒」に置換して具現したかのようである。


苦労してやっと終盤まで来たところで、現行の新潮文庫が「改版」であることを知った。たぶん旧字が新字になっているだけでもずっと読みやすくなっていることだろう。それを早く言ってくれよ…と泣きそうになったのだが、しかし六十年前、訳者はこれを手書きしていたのだ。
朝吹三吉は慶応でフランス語を教えるかたわら、当時日本では無名だったがサルトルが激賞していた本作を翻訳した。片時も原書をはなさず寝食を忘れて没頭、(当時合法だった)ヒロポンを打ちながらの訳業だった。大衆小説ではなく実存主義小説と呼べそうな、それでいて下層階級の隠語を散りばめて赤裸々に語られる犯罪の告白や男色者の欲望は、西欧芸術の美学研究に勤しんでいたインテリにはまったく未知の不可解なものだったはずだ。もとより友人に薦められて始めた仕事であり、出版社や編集員のバックアップがあるわけでもなかった。上流家庭に育った三吉の交友範囲に‘その道’に詳しい者もいなかっただろう。
そんな孤独な言葉との格闘(それはフランス語に対してというより、もっぱら日本語でジュネの審美眼に適う文章にするための苦行だったのではないか?)の成果は、自分の理解力の低さは差しおき、気塊として文面にありありと表れている。

もし自恃の念が、其処にわたしの有罪性がそびえる、そしてそれで織られたところの、壮麗なマントであるならば、わたしは有罪であることを欲する。有罪性は獨異性を現出させるのであり、もし有罪者が硬い心を持っているならば、彼はその彼の心を孤独という玉座の上に高く掲げるのである。孤独はわたしに与えられるものではない、わたしはそれを勝ち取るのだ。わたしは孤独へ、美への念願によって導かれるのだ。わたしは孤独において、自己を確定することを、即ち、わたしの輪郭を決定し、混合の状態から抜け出し、わたしを秩序づけることを希うのだ。


正直に言って、自分にはこれが名訳なのかどうかはわからなかったのだが(少なくとも現代日本語文としての洗練さはないと思うのだが)、しかし……
「このような私にすら生き抜く勇気と力を与えてくれた」 と評したのは坂口安吾。さらに三島由紀夫は 「ジュネは猥雑で、崇高で、下劣と高貴に満ちている。その詩心にひそむ永遠の少年らしさは、野獣の獰猛な顔をした天使を思わせる。朝吹三吉氏の翻訳は、ジュネが表現しようとした稀有な思想の脈搏を伝えている」 と激賞した。
やはりわかる人にはわかるのだろうと感嘆する反面、終戦直後の知識人はこういう荒々しくたくましい最底辺の活動に革命的な美しさや人間の生のしたたかさを夢想したがったのだろうとも思ったり。ともあれ、往年の名作が次々と新訳で生まれ変わる昨今、この作品は現在も三吉のこの翻訳を唯一とするのだ。
望まれない子として生まれたがゆえに孤独な少年時代と青春を過ごした彼を人々は「泥棒」と呼び、そのために世の常ならぬ経験の中に類い稀な材料を得ることができたジュネは新しい創造の道に生きることができた。この作品にこそジュネという作家は実存する。たぶんこの自分の解釈は、そんなに的外れではないだろうと思う。

石村博子 / 孤高の名家 朝吹家を生きる


朝吹登水子 / サルトルボーヴォワールとの28日間 / 同朋舎出版(269P)・1995年(141103−1105) 】


     


サルトルボーヴォワールを伴って来日したのは1966(昭和41)年の秋。四週間の滞在中、東京から関西、九州まで巡った彼らの旅をつきっきりでエスコートしたのがサガンの翻訳で知られる仏文学者の朝吹登水子さんだった。
当時の日本は、世界で最もサルトルが読まれる国だったという。1953(昭和28)年に『第二の性』がベストセラーとなったボーヴォワールも女性に絶大な人気があった。二回の講演会には数万通の応募があり、会場は熱気に包まれた。行く先々に記者とカメラマンが随行し、彼らの一挙手一投足は全国に報じられた。
「二十世紀最大の思想家」と呼ばれたサルトル(当時61歳)だが、それにしても海外の一知識人にこれだけの注目が集まるというのは、現在ではちょっと想像がつかない現象である。


大阪・道頓堀では、あの巨大なカニの動く看板にサルトルが怯えないかと心配する登水子さんが可笑しい。小田実開高健も出席したベ平連の討論会では、主催側の通訳を気に入らなかったサルトルが登水子さんを舞台に呼び出すというハプニングも。
好奇心旺盛なサルトルボーヴォワールは下町の商店街をぶらついたり、大衆食堂で食事をしたりもしている。基本的にはプライベート旅行でSPが付いているわけではないので、この間の登水子さんの心労は相当なものだっただろう。
二人は一般庶民の生活ぶりにも大いに関心を寄せて、日本と日本人に好意を示した。政治的思想的発言は控えていたが、広島の被爆者の現状を視察した際には怒りを露わにした。
読んでいると、ふだんは知識人ぶった態度を見せない二人の気さくで飾らない人柄がよく伝わってくる。それもひとえに細々とした心配りを欠かさない登水子さんを信頼し感謝していたからだろう。ボーヴォワールから「小説を書きなさい」と叱咤された登水子さんはその後、自作を発表。二人との親交は彼らの死まで続いたのだった。



石村博子 / 孤高の名家 朝吹家を生きる 仏文学者・朝吹三吉の肖像 / 角川書店(292P)・2013年1月(141105−1108) 】


・内容
 ジュネ『泥棒日記』の名訳で知られ、その悪と倒錯の世界を日本に伝えた仏文学者の朝吹三吉福澤諭吉に連なり、財界人ほか数多くの文化人を輩出した朝吹家に生まれた彼が、独自に守り育てた深い薫陶と美の哲学とは何か?今まで誰も触れることのなかった秘蔵の日記や資料を掘り起こし、多くの関係者への取材を重ねた貴重なノンフィクション。


     


サルトルボーヴォワールの来日時に彼らを案内したのは朝水登水子さんだが、当時の日本の政治状況や反核運動原水禁原水協)について質問されると、フランス暮らしの長い登水子さんに代わって説明したのが彼女の兄・朝吹三吉(1914-2001)だった。肩を並べて歩く三人から少し距離を置き、ここというときにだけ妹を助けに出る、兄妹のそのコンビネーションは絶妙だったという。
けして人嫌いというのではないけれど、進んで自己主張をすることはなかったという三吉の控えめな人物像を本書で知り、このサルトル来日時に陰ながら妹を支えていた彼の様子が目に浮かんでくるようだった。


祖父が福沢諭吉に師事していて、慶応−三井系の戦前の実業界に名を知られた家系に生まれ育った。フランス文学に憧れてパリに留学。美学を中心にした文化史研究にのめりこむものの、ナチスの進軍を前に余儀なく帰国、母校・慶応に職を得る。戦後、ジッドやヴァレリーを翻訳し、ジュネの『泥棒日記』(1953年)でその名を知られるようになる。
しかし、彼が翻訳を手がけたのは、あくまで「生活のため」だった。戦後の占領政策により父・常吉公職追放の身となり、預金封鎖や重い財産税のために資産を失い、名家の子息とはいえ自活せねばならなかったのだ。

 「自分がジャン・ジュネを翻訳した人間だということは、誰にも言わないでくださいね」
 ジュネはサルトルなど前衛的な文化人に熱烈に支持されていたが、一九世紀的ブルジョワジーの価値観が根深く残るフランスの上流社会では、まだ侮蔑の対象として受け止められる気配も残っていた。泥棒で男色の男が書いたものを訳したことが知られると、良くも悪くも色眼鏡で見られてしまうことを警戒したのだろう。


彼の訳業は、わずかに十四作なのだという(共訳も含む)。エッセイもランボーに関する二本以外書き残さなかった。翻訳家として生きることを拒み、教育者として若者を指南する道を選んだ。フランスの文学と文化に関して国内第一級の知識と経験を持ちながら、文学部仏文科ではなく、法学部の教養学科教授として定年まで勤めた。社会的名声への無関心ぶりは不思議なほどである。
妹の登水子さんは戦後再び渡仏し、やがて日仏の架け橋として活躍するようになる。『悲しみよ こんにちは』(1955年)は翻訳者として最初期の仕事。波乱に富んだ彼女の前半生を思うと、サガン出世作を翻訳する日本人はこの人以外にはいなかっただろうと思われる。サガンボーヴォワールの翻訳以外にも自作の小説・エッセイを発表し、「朝吹」の名を代表する存在になったが、彼女をフランス文学の道に引き入れ、その仕事をずっと見守り支えていたのが三吉だった。


英国調の、テニスコート付きの洋館。子どもたちは幼少期から英語に親しみ、両親を「ダディ」「マミー」と呼んだ。テニス、ファミリーコンサート、運転手付き自家用車、鎌倉や軽井沢の別荘。戦前の朝吹家はまさに‘華麗なる一族’である。その主人・常吉(名付け親は福沢諭吉)の五人の子どもたちは、音楽家建築士、そして仏文学者としてそれぞれの分野で多大な功績を残した。が、自立自尊を信条とする教育方針だったとはいえ、父の跡を継いで実業界に進む者が一人もいなかったというのは、また不思議な感じがする。三吉の私心のなさの理由は、一流の財界人だった祖父と父に対する複雑な感情を起因としていたのだろうか。
しかし、世襲で財界に名を成し資産家として生きるのを良しとしないDNAがこの一族には確かにあるのだ。三吉の次男は詩人で仏文学者でもある朝吹亮二、その娘が芥川賞作家の朝吹真理子。形こそ違えど、血脈は途絶えてはいないのだろう。


(いちばんの感想は、自分もこんな家に生まれつきたかった…、それに尽きる。でも、たとえパリに留学させてもらったところで、ジーン・セバーグやアンナ・カリーナみたいなパリジェンヌに熱を上げて勉学どころではなかっただろう。親の名が通用しない世界でひたすら自己研鑽に励む。自ら律して目標に突き進む。そういう‘名家’の血は自分とは決定的に違っているのを痛感した)